戦塵 La battaglia

 正平七年(1352)三月、足利義詮の軍勢は前月より南朝軍に制圧されていた京都を奪還。退却した南朝軍は後村上天皇の行在所がある男山八幡(石清水八幡宮)に籠り、足利軍を迎え撃った。
 楠木正儀らの奮戦もあったものの、三万に膨れ上がった足利軍の威勢に対しては如何ともし難く、包囲戦は長期に及んだ。兵糧が枯渇し始めた南朝軍からは、足利方に降る者も現れた。
 投降者によって城内の様子が敵に知られれば天皇に危険が及ぶ。五月十一日の夜、後村上天皇はわずかな側近とともに包囲網を脱出し、大和賀名生へ戻ることとなった。
 後村上天皇は紀伊の住人山本判官が献上した黄糸縅【きいとおどし】の鎧を身につけ、栗毛の馬に白鞍を置いて跨がった。幼い頃より北畠父子とともに戦場に出ていただけあって、さすがの堂堂とした姿だ。
 包囲する足利軍との戦闘が始まった。囲みを破って天皇を無事に逃がすべく、南朝軍の兵たちは決死の戦いに臨む。
 この時、足利軍の一宮有種という者が馬上の後村上天皇を見て「しかるべき大将とお見受けいたす。引き返し候え」と声をかけた。勿論有種は一騎打ちを挑んだ相手が天皇だとは思いも寄らない。弓一張りの距離まで近づいたところへ、法性寺康長が馬を返して駆けつけ、有種の兜の鉢に太刀を三度四度と振り下ろし、有種を馬もろとも打ち倒した。
 木津川に沿って馬を急がせているところへ、追撃してきた備前の松田備中守と備後の宮道仙の軍勢合わせて五百余騎に囲まれる。矢の雨が降り注ぐ中、天皇を守るため兵たちは奮戦した。
 この戦いで南朝方は三百余人の将兵を失った。南朝の首脳四条隆資も討死している。後村上天皇が河内東条( 現大阪府富田林市)まで落ち延びることができた時、供廻りは法性寺康長ただ一騎になっていたという。天皇の鎧の胸板や草摺には何本もの矢が刺さっていたが、いずれも貫通はしていなかった。
 このように戦場の前線で生命の危機に瀕した天皇は、後村上天皇を措いて後にも先にもいない。

◆後村上天皇陵 拝所
後村上天皇陵 拝所


混迷 Il dissesto

 正平一統は瞬く間に破綻し、後村上天皇の京都回復の悲願は幻と消えた。この顛末は南朝側にも幕府・北朝側にも大きな混乱をもたらした。
 後村上天皇が男山から撤退して賀名生に戻った前後、京都の人びとの間で後村上天皇が軍事に専念するため三歳の皇子に譲位したという風聞が立った。真相は不明ながら、そのような噂の立つような不穏な動きがあったものと思われる。
 さらに翌正平八年(1353)五月、不義を働いた山民が梟首されたことに端を発して南朝に属する者の間で武力衝突があったという。南朝内部に混迷が広がっていたことを物語っている。

 一方、京都を奪還した足利方も問題を抱えていた。正平一統で廃された北朝の再建をしようにも、光厳・光明・崇光の三上皇と皇太子直仁親王は南朝方に連れ去られ、皇統の証である三種の神器も南朝の手にあった。幕府は既に出家が決まっていた彌仁親王(崇光の弟)を捜し出し、三種の神器もないまま後光厳天皇として即位させた。しかし正統性に疑問のあるこの即位は北朝の権威を失墜させ、北朝内部の混乱を加速させることになる。

 そんな中、南朝の屋台骨として政務に携わってきた北畠親房が正平九年(1354)四月に死去。後村上天皇にとっては股肱の臣というだけに留まらず、幼い頃より行動を共にしてきた父親のような存在だった。南朝にとっても、後村上天皇の心においても大きな損失となったに違いない。

◆後村上天皇陵 拝所
後村上天皇陵 拝所


 正平九年(1354)十月、後村上天皇は河内天野(現大阪府河内長野市)の金剛寺に行宮を遷す。少しでも京都に近い場所へ。天下一統という後醍醐天皇から受け継いだ夢はいまだ捨てたわけではなかった。
 年が明けた正平十年(1355)一月には足利直冬が反尊氏・義詮勢力を糾合し、京都を制圧した。義父直義の死によって九州で孤立した直冬は、正平一統破綻ののち南朝に帰順していた。しかしこれも二ヶ月足らずで尊氏側に奪い返されている。なお、こののち直冬はこれといった事績を残すことなく、歴史の波間に消えていった。

◆後村上天皇陵 石標
後村上天皇陵 石標


 正平十二年(1357)七月、南北和睦の交渉が行われて大略がまとまりかけるも、結局決裂している。
 正平十三年(1358)四月、足利尊氏が没し、同年十二月足利義詮が征夷大将軍に任じられた。またこの年の八月には南朝でも左大臣洞院実世が没している。実世は八幡合戦で戦死した四条隆資とともに南朝を支えた重鎮だった。これで後村上天皇の即位以来政権中枢を担ってきた三人の廷臣が皆この世を去ったことになる。十二歳で即位した後村上天皇も三十一歳。世代交代の時期が訪れていた。

黄昏 Il crepuscolo

 正平十四年(1359)十二月、後村上天皇は金剛寺から観心寺に拠点を移した。行宮は搭頭惣持院に結ばれた。観心寺境内の惣持院跡地には「後村上天皇御旧趾」の碑が建てられている。

◆観心寺 後村上天皇御旧趾(旧惣持院跡)
観心寺 後村上天皇御旧趾(旧惣持院跡)


 翌正平十五年(1360)一月、南朝攻撃に向かった足利義詮の陣中において、南北和睦の議が再び行われたと伝わる。しかしこれも実現しなかった。
 同じ年の九月には観心寺を出て、より京都に近い摂津住吉大社を行宮としている。この頃、信濃にいた異母兄宗良親王に対して挙兵を要請しているが、宗良も劣勢下に置かれており、それどころではなかったようだ。
 正平十六年(1361)九月、将軍足利義詮の執事細川清氏が幕府内の政争により失脚して南朝方につく。十二月には楠木正儀らとともに京都に攻めこみ義詮を逐うが、すぐに反撃を受け奪い返されている。

終幕 La fine

 南朝の勢力は目に見えて弱体化していたが、それでもなお後村上天皇は強硬な姿勢を崩さなかった。
 正平二十一年(1366)十一月から翌年四、五月にかけて和議がもち上がったが、この時幕府側に示された後村上天皇の綸旨に「降参」の文字があったことで義詮の怒りを買い、和平交渉は幕切れとなった。後村上天皇にとっては、幕府・北朝側の降参という形以外での和睦成立は考えられなかった。
 その後も南北合体の形での和睦を望む義詮側から働きかけが行われるが、後村上天皇がこれを受け入れることはなかった。

 正平二十二年(1367)十二月、足利義詮が没する。遺言により、嵯峨野の観林寺(宝篋院)にある楠木正行の墓の傍らに葬られた。義詮と正行とは敵であったが、観林寺を中興した黙庵周諭にともに帰依し、義詮は正行を敬慕していたという。

 そして翌正平二十三年(1368)三月十一日、後村上天皇は住吉行宮においてその波乱に満ちた生涯を閉じた。四十一歳だった。
 遺骸は観心寺で荼毘に付され、葬られた。陵の東には供養のため法華三昧堂が建てられたと伝わるが、現存しない。
 幕末の文久の修陵では参道の石段が整備され、墳丘前を平らに整地して拝所が設けられた。墳丘には盛り土を施して大規模化し、石柵で囲い、正面に石扉を設置。
 修陵後は陵名を「檜尾山陵【ひのおやまのみささぎ】」としたが、現在は「檜尾陵【ひのおのみささぎ】」と号し、宮内庁書陵部の管理下にある。
 なお、観心寺境内には後村上天皇の母新待賢門院廉子の墓と伝えられる塚もあり、「コウボ坂陵墓参考地」として宮内庁が管理している。また境外の「檜尾塚陵墓参考地」も廉子が被葬候補者となっている。


参考文献:
◇洞院公賢『園太暦 巻二』 太洋社 1937
◇洞院公賢『園太暦 巻四』 太洋社 1940
◇永原慶二/笠松宏至(訳)「神皇正統記」『日本の名著 9』 中央公論社 1971
◇森茂暁『皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身』 中央公論社 1988
◇長谷川端(校注)『太平記2』(新編日本古典文学全集55) 小学館 1996
◇長谷川端(校注)『太平記3』(新編日本古典文学全集56) 小学館 1997
◇長谷川端(校注)『太平記4』(新編日本古典文学全集57) 小学館 1998


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