高野山真言宗遺跡本山観心寺。役行者によって開かれ、弘法大師が道場としたその古刹には参拝客の絶えることがない。その中にあって、訪れる人の稀な、ひっそりと静寂に包まれた場所がある。
 金堂前の広場を右へ進み、諸堂を通り過ぎると、山上へと延びる石段が現れる。傍らの石標には「後村上天皇檜尾陵参道」とある。そう、この先に、第九十七代後村上天皇の眠る御陵があるのだ。

後村上天皇陵 参道石段

後村上天皇陵 参道石段



檜尾陵
【ひのおのみささぎ】
所在地大阪府河内長野市寺元檜尾
管轄宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所
被葬者第九十七代後村上天皇
分類天皇陵
形態円丘
別称/旧称檜尾山陵


皇子 Il principe

 義良のりよし親王、のちの後村上天皇は嘉暦三年(1328)九月、後醍醐天皇の第七皇子として生まれた。母は右近衛中将藤原(阿野)公廉の娘廉子かどこ。後醍醐の寵愛を一身に受けた女性。廉子が義良を懐妊した時に太陽を抱く夢を見たということを北畠親房が『神皇正統記』に記している(これは勿論、義良が天皇に即位してから書かれたもの)。
 諱は初め憲良と書いたとされる(『南朝紹運録』)が、初名が義良でのちに憲良に改めたとする説もある。

 鎌倉幕府が倒れ建武の新政が開始された元弘三年(1333)、後醍醐天皇は、日本全土を掌握するために皇子たちを各地に派遣した。この時僅か六歳の義良は奥州鎮撫の任に就くことになり、北畠親房・顕家父子を後見として同年十月多賀城に下向した。
 翌建武元年(1334)五月には七歳で立親王。

叛旗 La rivolta

 義良が奥州に滞在して二年を経た建武二年(1335)十一月、足利尊氏が鎌倉で後醍醐政権に叛旗を翻す。京都を目指して西上する尊氏を阻止すべく、同年十二月、北畠父子と義良は五万の兵とともに奥州を発った。
 翌建武三年(1336)一月、足利義詮らの守る鎌倉を陥とした奥州軍は、驚異的な速度の行軍で京都へ向かい、新田義貞・楠木正成らと合流、連戦の末、尊氏を撃破し、九州へと追いやった。凱旋後の延元元年(1336)(二月に改元)三月、内裏において義良の元服の儀が行われるとともに、三品陸奥太守に叙任される。そして間もなく北畠顕家とともに奥州へと帰国した。親房は義良の補佐を息子に任せ、京都に留まった。
 義良らが多賀城に帰り着いたのは五月だったが、その間に勢力を回復した足利軍が九州から東上。新田・楠木軍が摂津湊川でこれを迎え撃つが、楠木正成が命を落とし、新田義貞も大損害を蒙って退却、六月には尊氏が再び京都を制圧する。




 八月、尊氏は光明天皇を新天皇に立て、和議に応じた後醍醐は廃帝となり、十月、幽閉先の花山院邸に入った。尊氏は十一月に建武式目を制定。新たな武家政権、すなわち室町幕府が実質的に成立する。
 一方、後醍醐の覇権への執念は衰えてはいなかった。延元元年(1336)十二月、後醍醐は京都を密かに脱出して吉野に立て籠り、自らが正統な天皇であると宣言する。南北二つの朝廷が並立する南北朝時代の幕開けである。

流転 Le vicissitudine

 延元二年(1337)一月、義良と北畠顕家は多賀城から伊達郡の霊山城に拠点を移している。その前後、京都を奪還すべく上洛せよとの後醍醐の綸旨が顕家の許に届いた。八月、十歳の義良は顕家に奉じられ、奥州各地から集められた十万を超える軍勢を引き連れて西上を開始する。
 奥州軍は各地で足利勢を撃退しつつ十二月に鎌倉を制圧、翌延元三年(1338)一月には美濃で足利方を蹴散らしたものの、長期の行軍で疲弊が頂点に達していたため、このまま京都へ攻め入るのを諦め、吉野へ向かうべく伊勢に軍を転進させた。
 二月、奈良般若坂で北朝軍と激突、大敗を喫した顕家は義良を吉野へ送り、自らは河内へ逃れた。
 畿内各地で激戦を繰り広げた顕家だったが、延元三年(1338)五月、和泉石津で討ち死。享年二十一歳。兄のような存在だったであろう顕家の死を、十一歳の義良はどのように受け止めたのだろうか。

後村上天皇陵 制札

後村上天皇陵 制札



 顕家に続き、七月には新田義貞が越前で敗死し、南朝方の劣勢は決定的となる。
 九月、義良と異母兄宗良むねよしは顕家の弟顕信とその父親房、そして結城宗広に奉じられ、奥州勢力を再結集するために伊勢大湊を船出するが、暴風雨に遭って散り散りとなる。義良と顕信が乗った船は伊勢湾口の篠島に漂着した。
 義良はその後奥州へ戻ることはなく、翌延元四年(1339)三月吉野に入り、間もなく皇太子の地位に就いた。

即位 L'intronizzazione

 義良が吉野に戻って五ヶ月経った延元四年(1339)八月、後醍醐は病を得る。病状は回復することなく、八月十六日に崩御。「玉骨はたとえ南山(吉野山)の苔に埋むるとも、霊魄は常に北闕(京都の皇居)の天を望まん」と言い残したという。
『神皇正統記』によれば、その前日八月十五日に義良は譲位を受け践祚(皇位を継承すること)している。そして十月三日に即位、南朝二代天皇となった。
 当時常陸に在国していた北畠親房を総監督とし、洞院実世と四条隆資が実務を執り行って十二歳の幼帝を支える体制が間もなく整えられた。
 十二月には各地で転戦する南朝方の武将に対し、綸旨を発して激励している。
 こうして、新たな天皇の下、北朝すなわち足利政権を打倒するという先帝の遺志を実現するための態勢が固まった。

後村上天皇陵 拝所

後村上天皇陵 拝所



混沌 Il caos

 後村上天皇にとっての最初の大きな試練は、即位から九年、二十一歳となった正平三年(1348)に訪れた。
 一月、足利尊氏の執事高師直は河内四條畷で楠木正成の遺児正行を敗死させると、余勢を駆って南朝本拠吉野へと兵を向ける。
 報せを受け、後村上天皇は吉野を落ちて紀伊阿弖河(現和歌山県有田郡有田川町)へ避難した。師直軍はもぬけの殻となった吉野を無惨にも焼き払った。行宮(仮の皇居)や公卿らの宿所のみならず、蔵王堂をはじめとする諸堂社祠が灰燼に帰した。なお、この前後河内石川に進軍した師直の弟師泰の軍は、叡福寺の聖徳太子廟に乱入して遺骸を破損、副葬品の砂金をことごとく奪ったという。これら高兄弟の恐れを知らぬ行為は北朝方の公家たちをも震撼させた。
 幕府軍は七月に紀伊侵攻を開始。九月、足利直冬が阿弖河城を攻め、後村上天皇は吉野のさらに奥、大和賀名生(現奈良県五條市西吉野町)に逃れた。

 ところで、初期足利政権の体制は足利尊氏と弟直義による二頭政治だった。軍事指揮権を握る尊氏とそれを補佐する高師直、対して専ら政務を執り仕切る直義という構図。このような権力機構の分割は自然と派閥を生み、やがて対立へとつながっていく。
 尊氏派の大番頭ともいうべき師直は、吉野陥落の大戦果により、幕府内での影響力を急速に高めることになる。このことに危機感を募らせた直義との間の対立構造が鮮明となり、ついに内訌へと発展、争いは全国規模に波及する。世にいう観応の擾乱だ。
 正平四年(1349)直義は師直の悪行を尊氏に訴え、執事職を罷免させるが、師直は軍事力を行使して反撃、直義は出家して政務から退き、代わって尊氏の嫡男義詮が政務を統括することになった。
 翌正平五年(1350)派閥を率いて挙兵した直義は、南朝方につくという意外な策で対抗し、翌六年(1351)師直一族を誅殺、義詮の政務を後見する形で政権中枢に返り咲いた。
 師直一門が排除されたものの、直義派と反直義派(尊氏派)の抗争が終息したわけではない。佐々木道誉・赤松則祐らの蜂起で間もなく直義は再び失脚、越前を経て鎌倉へ落ちた。
 直義派は京都から一掃されたが、直義は関東・北陸を抑え、また直義の養子直冬(実は尊氏の子)が九州を地盤に直義に同調し、幕府に敵対している。尊氏は直義を追い込むため、自らが南朝に降る形で和議を成立させ、後村上天皇より直義追討の綸旨を得る。

後村上天皇陵 御陵印

後村上天皇陵 御陵印



幻夢 Il sogno

 正平六年(1351)十一月、和議の条件に従い、賀名生から派遣された南朝の特使によって北朝政権の接収が始まる。北朝の崇光天皇は皇位を廃され、北朝による叙位・任官は全て無かったものとなった。南朝が京都を奪還したのだった。これを正平一統と称ぶ。
 一方、尊氏は関東の直義を討伐すべく京都を発った。年が明けた正平七年(1352)一月、直義は敗れ、鎌倉に幽閉された。そして翌二月に急死。尊氏による毒殺ともいわれる。

 直義の死により、正平一統は早くも瓦解することになる。尊氏にしてみれば、南朝と手を結ぶ必要は最早ないのだ。後村上天皇にとって父後醍醐の遺命であり、即位以来の悲願であった京都回復は、うたかたの夢に終わろうとしていた。
 直義が死んだ同じ日、後村上天皇は賀名生を出発している。京都への還幸のためだ。摂津住吉大社に十八日間の逗留ののち、閏二月、山城男山八幡宮(石清水八幡宮)に入った。この道中、尊氏逆心の動きは既に後村上側の耳に入っていたことだろう。やはり力ずくで取り戻すより他に悲願達成の道はない。
 尊氏不在の隙をつき、楠木正儀(正成三男)・北畠顕能(親房三男)が京都の足利義詮を急襲、義詮は近江へ逃亡した。これに呼応して、関東でも新田義興(義貞次男)・義宗(義貞三男)らが新たに征夷大将軍に任じられた宗良親王を奉じて兵を挙げ、一時鎌倉を占拠している。
 京都を制圧するも束の間、三月に足利方の反撃で京都を再び奪い返され、さらに後村上天皇のいる男山が足利軍に包囲された。
 後村上天皇の生涯における最大の危機が間近に迫っていた。

後編に続く》





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