八幡神の化身

 寛弘七年(1010)正月元日の早朝、遠江国引佐郡井伊谷(現静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)に鎮座する八幡宮の神主が、神田の傍らにある御手洗の井戸で赤子が泣いているのを発見した。
 抱き上げてみれば、顔立ちは秀麗、黒目がちの瞳からは聡明さが溢れ出ている。常人ではないと悟った神主。八幡神の化身に違いないと信じ、連れ帰って大切に育てた。
 男児は七歳になり、神童と称され評判となっていた。遠江介(国司の次官)としてこの地に下向して間もない藤原共資がその噂を聞きつけた。跡継ぎのいない共資は、神主に頼み込んでその子を貰いうけ養子とした。
 男児は成長して共保と名乗り、二十三歳で共資から家督を継ぐ。そして井伊谷に居館を構え、井伊氏を称した。
 この井伊共保が、のちに徳川幕府譜代大名筆頭となり、近江彦根三十万石を領して五人の大老職を輩出した井伊家の始祖である。

 共保の七百五十回忌にあたる天保十三年(1842)、彦根藩十二代井伊直亮は、彦根龍潭寺山門下の参道脇に小祠を建て、遠江の井伊谷八幡宮(渭伊神社)より八幡神像を遷し祀って井伊八幡宮と称した。この像は、八幡神の化身ともいわれた共保を象ったとも伝えられる。
 現存の絢爛たる社殿が完成したのは弘化三年(1846)。
 明治二年(1869)社号を井伊神社とする。

井伊神社 社号標

井伊神社 社号標



井伊神社
【いいじんじゃ】
鎮座地滋賀県彦根市古沢町石ヶ崎1112
包括神社本庁
御祭神稜威鞆安彦命【いつともやすひこのみこと】(井伊共保公)
稜威直政彦命【いつなおまさひこのみこと】(井伊直政公)
稜威直孝彦命【いつなおたかひこのみこと】(井伊直孝公)
井伊家歴代の神霊(配祀)
創建天保十三年(AD1842)
創祀井伊直亮
社格等旧県社
別称/旧称井伊八幡宮


井伊神社 鳥居

井伊神社 鳥居




井伊家の祖廟

 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いで石田三成が敗れ、その領地だった佐和山は井伊直政に与えられた。二年後に直政が亡くなり、跡を継いだ直継の代に彦根城が完成するまで、佐和山城が井伊家の居城となった。



 彦根における井伊家の始まりの地である佐和山麓には、井伊神社のほか、龍潭寺・清凉寺・長寿院(大洞弁財天)・仙琳寺・天寧寺といった同家ゆかりの寺社が建ち並ぶ。

 弘徳山龍潭寺は、井伊直政が佐和山入部に際し、始祖共保以来の井伊家菩提寺である遠江井伊谷の萬松山龍潭寺から分寺したもの。共保出生譚の伝わる井伊谷八幡宮(渭伊神社)はその萬松山龍潭寺境内にあった。南北朝時代に龍潭寺北西の現在地に遷座している。
 その井伊谷八幡宮から共保公の神霊を稜威鞆安彦命(伊頭鞆安彦命)として迎え奉斎したのが井伊神社。
 天保十三年(1842)最初に井伊八幡宮(井伊神社)の小祠が建てられたのは彦根龍潭寺の参道脇。現在招魂碑のある辺りだという。この招魂碑は戊辰戦争で戦死した彦根藩士二十六人を慰霊するため明治二年(1869)に建てられたもので、滋賀縣護國神社の元にもなった。

井伊神社

井伊神社



 四年後の弘化三年(1846)、入母屋造銅板葺の本殿と拝殿を相の間で結んだ権現造の社殿が造営される。軸部や垂木は朱漆、建具には黒漆を塗り、組物や蟇股は極彩色、長浜の名匠早瀬守次の手になる精緻な彫刻が施され、内部の格天井には様様な草花が描かれた絢爛豪華な設い。

井伊神社 旧社殿

井伊神社 旧社殿



 社殿は傷みが激しく雨漏りが酷い状態で、保護のためトタンの上屋が掛けられている。何とも殺風景。

井伊神社 旧社殿

井伊神社 旧社殿



 実は現在、この社殿に神は祀られていない。
 平成二十五年(2013)三月に新しい社殿が建立されて神霊が遷され、旧社殿は文化財として彦根市の管理下にある。本殿に安置されていた神像も御霊を抜かれ、彦根城博物館に寄贈された。

井伊神社 新社殿

井伊神社 新社殿




佐和山神社合祀

 井伊八幡宮は明治二年(1869)、龍潭寺から分離され、井伊神社の社号を掲げる。
 明治九年(1876)十月村社に列し、同十四年(1881)郷社に昇格、さらに同十六年(1883)五月二十四日には県社となった。

井伊神社 旧社殿

井伊神社 旧社殿



 昭和十三年(1938)、井伊神社は近隣の佐和山神社を合祀している。佐和山神社の祭神は彦根藩祖井伊直政公と二代藩主直孝公(直政の跡を継ぎ藩主となったのは直継だが、のちに廃嫡となり弟直孝が家督を継いだため直継を二代には数えない)。
 さらに昭和十六年(1941)には十一代井伊直中公・十二代直亮公・十三代直弼公をはじめ歴代藩主を祀る祖霊社も配祀神として合祀。この祖霊社がどこにあったかは不明。あるいは佐和山神社の境内社ででもあったろうか。
 佐和山神社は、文化四年(1807)に井伊直中が直政・直孝を祀るため、龍潭寺の南に隣接する祥壽山清凉寺の境内に造営した護国殿がその始まり。神仏分離で清凉寺と分かれて佐和山神社となり、明治十六年(1883)県社に昇格している。井伊神社に合祀後も社殿は残されていたが、昭和三十五年(1960)、福井県敦賀市栄新町の天満神社に移築された。

井伊神社 井伊直弼お手植えと伝わるしだれ桜

井伊神社 井伊直弼お手植えと伝わるしだれ桜



 平成三年(1991)、当時井伊神社宮司であった井伊家十六代当主井伊直愛氏(元彦根市長)は、井伊神社を多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)に譲渡した。以来多賀大社宮司が井伊神社の宮司を兼務している。


血染めの薄

 慶長二十年(1615)、大坂夏の陣。
 井伊直孝率いる軍勢は、若江堤に布陣する豊臣方の木村長門守重成の部隊と激突、乱戦となる。
 直孝は前年の冬の陣で無謀な突撃をして重成らから一斉射撃を浴び、大損害を蒙っていたから、その雪辱の思いもあっただろうか。
 奮戦ののち木村隊は壊滅、重成は部下の制止を振り切って敵陣に斬り込み、討死した。井伊家の臣安藤長三郎重勝に討たれたとも、井伊家の家老庵原助右衛門朝昌が討ち重勝に功を譲ったともいう。
 重勝は重成の首を若江堤に繁っていたすすきでくるみ、直孝に差し出した。首実検の時、髪と兜に香を焚きしめた重成の首を見た家康がその悲壮な覚悟に感嘆した逸話はよく知られている。
 この功により、重勝は家康より黄金五枚と羽織、そして重成の帯刀「道芝の露」を与えられたという。また直孝からは五百石の加増を受けた。
 重成の首は密かに彦根に持ち帰られ、安藤家菩提寺の宗安寺に葬られた。
 重勝が佐和山の池で重成の首を洗った時に、首をくるんでいた薄が落ちて佐和山に根づき、毎年秋になると赤みがかった穂をつけることから「血染めの薄」と称ばれるようになった。



 のち、佐和山に鉄道を敷くことになり、血染めの薄の根株は佐和山神社の手水鉢脇に移された。同社が井伊神社に合祀されると薄も井伊神社に移植されたのだが、枯死しかけたため、重成の首塚がある宗安寺に移したところ生気を取り戻したという。宗安寺の境内一角には今もこの薄が繁茂している。
 現在井伊神社にある血染めの薄は平成十年(1998)に宗安寺から株分けしたもの。

井伊神社 木村重成血染めの薄

井伊神社 木村重成血染めの薄




参考文献:
◇彦根実業同志会(編)『彦根案内』 彦根実業同志会 1917
◇摩天楼主人『彦根城頭より俯瞰すれば』 村下活版所 1925
◇中村達夫『彦根歴史散歩』 八光社 1975
◇三浦譲(編纂)『全国神社名鑑 下巻』 全国神社名鑑刊行会史学センター 1977
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典25 滋賀県』 角川書店 1979
◇式内社研究会(編)『式内社調査報告 第十二巻 東山道 1』 皇學館大学出版部 1981
◇彦根市教育委員会『彦根の近世社寺建築 近世社寺建築緊急調査報告書』 彦根市教育委員会 1983


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