港湾都市大物

 兵庫県尼崎市に「大物【だいもつ】」という地名がある。
 淀川の支流神崎川の河口部に位置し、平安時代末期から鎌倉時代にかけて港町として賑わった。西日本各地から運ばれた材木の集積地として栄え、材木の特に大きなものを指す「大物」が地名の由来ともいう。
 材木のみならず、各地の荘園から都へ送られる年貢米や都で売買される特産品など、様様な物資が集まり、水運業者・商人・漁師・職人・勧進僧・遊女など、あらゆる階層の人びとが出入りする一大物流拠点だった。
 ところで、大物の地名由来にはもう一つの説がある。それは大和三輪山大神神社【おおみわじんしゃ】に祀られる大物主神【おおものぬしのかみ】に因むというもの。大物主神の血を引く大田田根子命【おおたたねこのみこと】の後裔氏族鴨部祝【かもべのはふり】がこの地に住し、祖神を奉斎したのだという。それが大物の地に鎮座する大物主神社。

◆大物主神社 鳥居
大物主神社 鳥居


大物主神社
【おおものぬしじんじゃ】


鎮座地: 兵庫県尼崎市大物町二丁目7-6

包括: 神社本庁

御祭神:
大物主大神【おおものぬしのおおかみ】
市杵島姫命【いちきしまひめのみこと】
多岐都姫命【たぎつひめのみこと】
多紀理姫命【たきりひめのみこと】

創建: 平治元年(AD1159)

創祀: 平清盛

社格等: 旧村社

別称/旧称: 大物若宮 若宮弁財天社 大神祠 宇度祠 若宮八幡


若宮

 大物主神社は大物主大神を主神とし、市杵島姫命・多岐都姫命・多紀理姫命の宗像三女神を併せ祀る。
 往古より大物主神を祀り、時代が下って平治元年(1159)平清盛によって市杵島姫(弁才天)が合祀され、寛永年間(1624~1644)に至って多岐都姫・多紀理姫が勧請されたと社伝にいう。
 現社名となったのは明治七年(1874)十二月(棟札には十一月二十七日の日付けが記されている)のことで、それ以前は「若宮」と称していた。
 江戸時代の地誌を中心に、大物主神社に関する記録を辿ってみたい。

◆大物主神社 拝殿
大物主神社 拝殿


 寛文七年(1667)の『京童跡追』に「尼崎大物若宮」の項がある。平清盛が厳島神社の社殿建立のため船にて安芸へ向かう際、大物浦の辺り波風荒く航海困難であったが、海神に祈り、この地に弁才天の社を建てることを誓うと海が平地のように鎮まり、海路事なきを得た。そして帰路大物に社を建立して、肌身離さず持っていた弁才天像を神体として祀り、老いゆく我が身がいつまでも若若しくいられることを願って若宮と称した。また神宮寺を置き、海平寺と名づけたとある。
 次に、元禄五年(1692)の尼崎藩による寺社改めには、「若宮弁財天社」の名で記されているという(『尼崎志』)。
 元禄十四年(1701)刊行の『摂陽群談』でも「弁才天社」となっている。清盛が厳島神社参籠に向かう折に大物で船が沈みそうになるも、伊都岐島神(市杵島姫命)に祈ると波が静まった。そこで厳島より市杵島姫命を勧請して「蓬莱山若宮八幡」と称し、社僧海平寺にこれを守らせたとする。
 市杵島姫を祀りながら「八幡」と称するとは奇異だが、これについて昭和五年(1930)から同十年(1935)にかけて刊行された『尼崎志』は以下のように推論している。戦国時代、兵乱によって各地の神社が罹災し破却されたが、牛頭天王社と八幡社にあってはそれを免れた例が比較的多かった。それは織田信長が牛頭天王を信仰していたこと、また八幡神が源氏の氏神であって、武家の長者となった足利氏や徳川氏が源氏を称していたことによる。牛頭天王や八幡神に関係のない神社の中には、兵火や武士の乱妨から逃れるためにこれらの神名を名乗るものもあった。大物主神社もそうした避難策をとり、一時的に八幡社を名乗った一社ではなかったか。そして八幡の名のみが後世まで残ったのではないか。



 なお、大正三年(1914)の『川辺郡誌』は『摂陽群談』に拠ったものか、「中古蓬莱山若宮八幡と称し祭神も仁徳帝にして」と記述する。仁徳天皇を祀るとすれば、八幡神即ち応神天皇の御子神であるから、若宮八幡と称するのも頷ける。「若宮」の称は、本宮から勧請した新宮(今宮)を意味する以外に、その神の御子神を祀る神社を指す場合がある。
 享保二年(1717)尼崎藩士某の写本による『尼崎記』では、「大物若宮」は弁財天を祀り、清盛が安芸より持参したという大日如来像を神体としていたという(『尼崎志』)。
 享保二十年(1735)の『摂津志』によると「大神祠」とあり、「尼崎若宮町ニ在リ 今宇度祠ト称ス」と記されている。「宇度」の語義は不明。
 そして寛政十年(1798)の摂津名所図会では「大物若宮」。宗像三女神を祀ること、清盛が勧請したことを記す。

◆大物主神社 拝殿 扁額「大物主大神 宗像三柱神」
大物主神社 拝殿


大物主

 一通り江戸時代の記録を見たところで、不思議なことに気づく。現在の主祭神である大物主神の名がどこにも現れない。
 祭神について言及しているものは、いずれも市杵島姫命(本地垂迹説に於いては弁才天と同一とされる)、または同神を含めた三女神としている。大物主神社の神として大物主神が登場するのは明治になってからのようなのだ。
 前述のように、大物主神社を正式に名乗るのは明治七年(1874)十二月のこと。大物主神が祭神に加わったのはどうもこの時らしい。
 実は、それとほぼ同時期の明治八年(1875)一月、ある人物が大物主神の総本社である大神神社の大宮司に就任している。最後の尼崎藩主にして最初の尼崎藩知事を務めた櫻井忠興だ。大物主神社から程近い櫻井神社は尼崎藩主松平家(忠興のとき櫻井に改姓)代代を祀るが、のちに忠興も祭神に名を連ねている。
 大物若宮が大物主神社となったことと櫻井忠興が大神神社大宮司に就いたこと。僅か一ヶ月余りの間に起こった二つのできごと。これは偶然なのだろうか。



 大物主神が近代になって祭神に列したのだとすると、当然、大物主神後裔の鴨部祝による創祀という「伝承」は創作されたものということになる。
 ただし、『摂津志』にある「大神祠」は注意を要する。同書は祭神については触れていないが、この「大神」を「おおみわ」と訓むとすれば、それは大物主神を指すものに他ならない。少なくとも江戸中期以前に大物主神を祀っていたか、そのような伝承が存在していたことになる。
 真相は果たして。

末社と薬師堂

 ともあれ、明治十二年(1879)の神社明細帳には、大物主神・湍津比売命【たぎつひめのみこと】・市杵島姫命・田心比売命【たごりひめのみこと】と、現在と同じ祭神の名が記されている。
 ほか、四つの末社相殿社に多くの祭神が名を連ねているが、現在は本殿に合祀されている。大きな陽石(男根型の石)を祀っていたという口碑が伝わるが、末社の中に塞神【さえのかみ】(道祖神)がみえるのがそれだろう。
 拝殿と本殿の間にはかつて池の址があったらしい。市杵島姫(弁才天)の社殿・堂舎の周りには池をめぐらせるのが例いだから、その名残りだろう。

◆大物主神社 拝殿
大物主神社 拝殿

 古地図を見ると、旧社地は今よりも少し北にあったようだ。天和年間(1681~1684)前後、城下町の区画整理にともなって移転したらしい。
 神宮寺の蓬莱山海平寺は薬師如来を本尊とし、江戸時代中頃までは存続していたようだ。戦前までは神社南門の西に薬師堂が残っていた。

義経と弁慶の伝説

 境内に「義経弁慶隠れ家跡」の石碑がある。
 源義経は兄頼朝と不和となり、追討されるところを弁慶や静御前とともに遁れて、この大物の地で一夜を過ごした後、九州を目指して船出した。しかし嵐に遭って船は難破、摂津に押し戻される。謡曲『船弁慶』や人形浄瑠璃『義経千本桜』の題材となり名高い。
 神社東隣にあった七間(七軒)長屋が義経主従の逗留場所と伝わる。そこに住していた山伏が弁慶と旧知の間柄だったともいう。その家の庭の一隅に二基の五輪塔があり、弁慶の塔などと称ばれていたらしい。明治までここに住んでいた某氏には弁慶の借用証文なるものが伝わるとか。
 江戸時代、若宮社と海平寺は修験者の庵住場所となっていたといい、彼ら修験者がこの伝承を伝えたものとみられる。

◆大物主神社 義経弁慶隠家跡碑
大物主神社 義経弁慶隠家跡碑

 碑は近年設置されたもの。元は昭和三年(1928)に神社東側の道路に建てられたが、太平洋戦争の空襲で消失。有志の声に応えて大物主神社が新たにこの碑を建てた。

 清盛や義経が活躍した時代の賑やかなりし大物浦の面影を、現在の大物の端正な街並みに見出すことはできない。けれど、古社がその記憶を伝え、かつての空気を束の間感じさせてくれる。神社仏閣を訪れる愉しみの一つがそこにある。

◆大物主神社 御朱印
大物主神社 御朱印



参考文献:
◇岡田徯志『摂陽群談』(大日本地誌大系 第九冊) 大日本地誌大系刊行会 1916
◇秋里籬島『摂津名所図会 下巻』(大日本名所図会 第一輯第六編) 大日本名所図会刊行会 1919
◇尼崎市役所(編)『尼崎志 第一篇』 尼崎市 1930
◇並河永『五畿内志 下巻』(日本古典全集 第三期第十四) 日本古典全集刊行会 1930
◇尼崎市役所(編)『尼崎志 第二篇』 尼崎市 1931
◇野間光辰(編)『新修京都叢書 第一巻 京童 京童跡追 京雀 京雀跡追』 臨川書店 1967
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典28 兵庫県』 角川書店 1988


大きな地図で表示

このエントリーをはてなブックマークに追加