波牟許曽神社
【はむこそじんじゃ】


鎮座地: 大阪府東大阪市長瀬一丁目大ヶ10-9

包括: 神社本庁

御祭神:
天照皇大神【あまてらすすめおおかみ】
伊弉那伎大神【いざなぎのおおかみ】
伊弉那美大神【いざなみのおおかみ】

創建: 不詳

延喜式神名帳: 河内国渋川郡 波牟許曽神社

社格等: 旧村社

別称/旧称: 波牟古曽神社 大森(大杜)天神 神明


◆波牟許曽神社 拝殿
波牟許曽神社 拝殿

 河内国渋川郡式内社六座のうちの一座。
「ハムコソ」とは不思議な響きの社名である。「ハム」は蛇、「コソ」は社の義だという。蛇神を祀る社ということか。
 一説にヘビの語源は「食む【はむ】」で、ハブやハミ(マムシ)、ハモ等も同根の言葉だといわれる。蛇が口を大きく開いて獲物を呑み込む様は確かに印象的だ。
 一方、吉野裕子氏は蛇の古語「ハハ」に目あるいは身がついた「ハハミ」が「ハミ」「ハビ」「ヘミ」「ヘビ」等に移行したとする。
「コソ」は新羅由来の言葉で神を祭祀する場所を表すともいうが定かではない。ただ、社あるいは杜と書いてコソと訓むのは確かで、万葉集でも係助詞の「こそ」に社の字を宛てている。
 この神社が鎮座する地域はかつて蛇草【はみくさ・はむくさ・はぐさ】という地名だった(渋川郡北蛇草村)。ハミクサがハムコソに通じるのは明らかだが、社名が先か地名が先かはわからない。

 明治二十二年(1889)に北蛇草村を含めた七ヶ村が合併し長瀬村となる。その後神社合祀政策により原則一村一社の基準が掲げられ、大正元年(1912)に長瀬村内の八社を合祀して新たに長瀨神社が創建された。波牟許曽神社の南約七百メートルの地である。それによって波牟許曽神社は廃社となり、昭和の初め頃には松の木数株が生えるのみとなっていたらしい。
 住民の尽力により旧地に還座したのは昭和五十一年(1976)のことという。ところが神社でいただいた由緒書には大正三年(1914)に祭祀を再開したとあって、上述の昭和初めの社地の状態に関する記録と矛盾する。正式な復祀がないまま地域の鎮守として祀っていたのだろうか。



◆波牟許曽神社 本殿
波牟許曽神社 本殿

 現在の祭神は天照大神とイザナギ・イザナミであるが、いつから祀られていたのか定かでない。長瀨神社に合祀される時点では天照は祀られていなかったとも。
 諸書をあたってもまちまちである。
 度会延経『神名帳考証』は埴安神・波牟埴安姫とする。
『特選神名牒』は神社明細帳に少彦名命、堺県式内諸社細記に「所祭未詳俗称伊弉那宜命」とあるのを挙げた上で「決めがたし」としている。
『神社覈録』は「詳ならず」。
 神社由緒書は他に彦己蘇保理命(凡河内国造祖神)や長背連祖神とする説も挙げる。
 いずれにせよ現祭神はそれほど古くまで遡れそうにない。
 記紀の神というよりは、もっと始源的な自然神としての蛇を祀るとするのが妥当なのかも知れない。
 なお、同じく長瀨神社に合祀された神社のなかに北蛇草字奥宮鎮座「蛇斬【じゃさき】神社」の名が見える。祭神は須佐之男命。波牟許曽神社との関係は不明だが、奥宮という字名も含めて興味深い。由緒等は既にわからなくなっているのが残念だ。明治の神社合祀政策によって失われたものは大きいと改めて思う。

◆波牟許曽神社 御朱印
波牟許曽神社 御朱印


参考文献:
◇鈴鹿連胤(撰)『神社覈録 上編』 皇典講究所 1902
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇教部省(撰)『特選神名牒』 磯部甲陽堂 1925
◇太田亮『河内』(『日本国誌資料叢書』第七巻) 磯部甲陽堂 1925
◇吉野裕子『蛇 日本の蛇信仰』 講談社学術文庫 1999


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蛇 日本の蛇信仰(講談社学術文庫)
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