千二百年の眼差し

 毎年四月十七日と十八日の二日間、大阪府河内長野市の観心寺において、秘仏如意輪観世音菩薩(国宝)の厨子が開扉される。
 平成二十九年(2017)四月十八日、仕事の休みが合い、念願のその姿を拝むことができた。

観心寺 金堂

観心寺 金堂




檜尾山観心寺
【ひのおさんかんしんじ】
所在地大阪府河内長野市寺元475
宗派高野山真言宗
御本尊如意輪観世音菩薩【にょいりんかんぜおんぼさつ】
創建大宝元年(701)
開山役小角
寺格等高野山真言宗遺跡本山 定額寺 河南三大刹
別称/旧称雲心寺


 観心寺は役行者が修行道場として開いたと伝えられる古刹。当初は雲心寺と称した。
 大同三年(808)に弘法大師空海がこの寺を訪れ、北斗七星を勧請した。さらに弘仁六年(815)、如意輪観音を刻んで本尊とし、寺号を観心寺と改めたという。
 弘仁七年(816)、空海は高野山開創のため観心寺を弟子の道興大師実慧に任せた。実慧が観心寺の実質的な開基とされる。
 実慧の弟子真紹によって天長四年(827)から伽藍整備が始まり、斉衡元年(854)に全ての堂宇が完成した。貞観十一年(869)には定額寺(官寺に準じる地位の寺院)に列せられる。
 空海自刻と伝えられる本尊如意輪観音像は、実際には真紹によって承和年間(834~848)に造立されたものとみられる。
 
観心寺 山門

観心寺 山門



 山門をくぐって石段を上ると、南北朝時代建立の金堂(国宝)には五色幕が掛けられ、堂内には多くの人が詰めかけていた。
 普段閉じられている内陣の厨子の扉が開かれ、遠目ながら如意輪観音像をこの眼に収めることができた。
 秘仏として長らく厨子に納められていた為、千二百年近く前に造られたとは思えないほど、美しい彩色が鮮やかに残っている。
 像は八重蓮華座の上に右膝を立てて安坐し、火焔のついた二重円光を背に、透かし彫りの宝冠をかぶる。衣は繧繝彩色うんげんさいしき截金文様きりかねもんようで入念な装飾が施されている。
 六臂のうち右第一手は頬に当て、第二手は如意宝珠を胸に掲げ、第三手は垂らして数珠を持つ。左第一手は下に伸ばして蓮台を抑え、第二手は蓮華を持ち、第三手は人差し指を立ててその先に輪宝をのせる。右第三手の手首と左第二手の手首は昭和三十年(1955)に何者かが毀損し持ち去った為後補。
 肉づきの良い豊満な顔。うっすら赤みを帯びた頬。唇の鮮やかな紅。なんともなまめかしい。その妖艶な表情に刻まれた切れ長の眼。衆生をまっすぐに見つめる黒い瞳からは、穏やかながら強い意志を感じ取ることができる。

滅罪の功徳

 金堂では鎌倉時代の大随求だいずいく菩薩画像(重文)も特別公開されていた。
 随求明王菩薩とも称ばれ、観音菩薩の化身とされる。『随求陀羅尼経』の具現尊。八臂で右手に五鈷杵・剣・斧・三股戟、左手に輪宝をのせた蓮華・索・宝幢・梵篋を持ち、蓮華に座す。
 大随求菩薩の真言陀羅尼は滅罪に抜群の功徳を示すとされ、塔婆に種字が記されることが多いという。
 金堂でこんな法話を聴かせていただいた。
 昔あるところにあらゆる悪事を働いた大悪人がいた。その男が死に、これで平和になると仏様が安心していると、何故か男は極楽へやって来る。驚いた仏様が下界を見下ろすと、男の塔婆に、大随求菩薩の陀羅尼を書いた布のほんの小さな切れ端が引っ掛かっているではないか。切れ端でもそれほどの功徳がある随求陀羅尼の霊験の凄まじさに仏様も感心した、という話。
 
観心寺 参道

観心寺 参道



霊宝館の特別展示

 金堂を出て、上って来た石段を訶梨帝母かりていも(鬼子母神)を祀る鎮守堂(重文)のところまで下り、境内の西端にある恩賜講堂(登録有形文化財)へ続く道を歩く。

観心寺 訶梨帝母天堂

観心寺 訶梨帝母天堂



 恩賜講堂は昭和天皇即位大典にあたって京都御苑に建てられた饗宴場の一部を移築改造したもの。
 恩賜講堂の手前にある霊宝館には、多くの文化財が展示されている。後村上天皇の念持仏と伝わる厨子入愛染明王坐像(重文)や、奈良時代前期の金銅観音菩薩立像・金銅釈迦如来坐像(いずれも重文)も特別展示されていた。

観心寺 訶梨帝母天堂

観心寺 訶梨帝母天堂



楠木正成・南朝ゆかりの寺

 観心寺は楠木正成の菩提寺としても知られる。
 建掛塔(重文)は正成の発願と伝わる。本来三重塔として建てられる予定だったが、建築途中で正成が戦死した為、初層のみとなった、いわば未完成の建築物だという。

観心寺 建掛塔

観心寺 建掛塔



 正成が湊川で殉節すると、足利尊氏は正成の首級を遺族に送り届けた。首は正成の遺臣安間七郎と生地兵衛によって観心寺に葬られた。観心寺を代表する史蹟の一つとして、首塚は今も大切に守られている。

観心寺 楠木正成公首塚

観心寺 楠木正成公首塚






 楠木氏の縁に加え、大和・紀伊との国境に近く、吉野や高野山と畿内中央部を結ぶ道すがらに位置することもあり、南朝二代後村上天皇はここ観心寺に行在所を構えた。
 後村上天皇は崩御後観心寺に葬られた。




 平成二十八年(2016)より、御開帳記念の限定御朱印が頒布されている。今年平成二十九年(2017)は緑色。

観心寺 如意輪観音御開帳記念朱印 「如意宝殿」

観心寺 如意輪観音御開帳記念朱印 「如意宝殿」




参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇小川光三ほか『魅惑の仏像 如意輪観音 大阪・観心寺』 毎日新聞社 2001


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西村 公朝/永島 龍弘/西川 杏太郎/小川 光三
毎日新聞社 2001-06-01
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