楠木正成終焉の地

 湊川神社の鎮座地は楠木正成が最期を迎えた場所と伝わる。
 境内の西北隅に、玉垣で囲われ門が設えられた一角がある。石標には「史蹟 楠木正成戦歿地」と刻まれている。この場所こそ、延元元年(1336)五月二十五日、楠木正成が将士七十余人とともに殉節を遂げた地だという。
 また、正成の墓所は境内の東南隅にある。

湊川神社 楠木正成公墓所

湊川神社 楠木正成公墓所



 文禄年間(1592~1596)の太閤検地ではその東西四間南北六間の土地が除地(免租地)となっているが、当時は田の中に小さな塚があるばかりだったらしい。
 元和三年(1617)尼崎藩五万石の領主として戸田氏鉄が入部すると同時に、墓所のある坂本村は同藩の所領となる。寛永十二年(1635)からは戸田氏に替わって青山氏が尼崎藩主となり、正保三年(1646)に二代青山幸利が塚に松と梅を植え、五輪塔を建てている。梅を植えたことから「梅塚(埋塚)」と称したともいう。
 寛文四年(1664)には福岡藩の貝原益軒がこの地を訪れ、荒れ果てて墓であることを示すものも無い状態を嘆いて墓碑を建てることを計画するも、のちに断念している。
 その後、水戸藩主徳川光圀によって、建碑の計画が動き出すことになる。

水戸光圀による墓碑建立

 後醍醐天皇の南朝こそが正統な皇統であると考えていた徳川光圀にとって、南朝への忠節を守って死んだ楠木正成は特別な存在だった。それ故、光圀が正成墓碑の建設を志すのは当然の成り行きだった。

 湊川神社北の大倉山に臨済宗南禅寺派廣嚴寺がある。楠公ゆかりの寺院として「楠寺」とも称ばれる。寺伝では正成らが自害したのは同寺境内の堂宇だったという。光圀は『大日本史』編纂の資料集めの為に臣を全国各地に派遣したが、楠公戦没地を管理していた廣嚴寺にも貞享二年(1685)に佐々宗淳を遣わしている。佐々はもと妙心寺の僧侶で、水戸黄門漫遊記における光圀のお供「助さん」こと佐々木助三郎のモデルとしても知られる。
 廣嚴寺の住職千巌宗般はかねて正成を尊崇しており、佐々とのやりとりの中で光圀の楠公墓碑建設の意志を知り、同調を示したと思われる。元禄三年(1690)には水戸藩士鵜飼練斎を通じて建碑を催促している。
 元禄四年(1691)、建碑が正式に決定。翌五年(1692)佐々宗淳が廣嚴寺を訪れ、建碑作業が始まる。この時、青山幸利の植えた梅の木は廣嚴寺に移され、五輪塔は地中に埋められた。同年十一月、墓碑が完成する。
 御影石の壇石を二段重ね、その上に白川石の亀趺きふと称ばれる亀の形の台石が乗り、その背に和泉石の板碑を背負う。亀趺の下には鏡が納められた。亀趺は正確には亀ではなく、贔屓ひきという神獣。龍が生んだ九頭の獣(龍生九子)の一。御影石・白川石・和泉石はそれぞれ、正成最期の地である神戸、後醍醐天皇の下で活躍した京都、故郷の大阪南部と、正成ゆかりの地で産出される石材ということで選ばれた。
 碑面には光圀の筆による「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字が刻まれた。また、裏には加賀藩主前田綱紀が寛文十年(1670)に狩野探幽に描かせた『楠公訣児図』(正成正行父子の桜井の別れを描いたもの)に添えられた朱舜水の賛も彫られている。舜水は明の儒学者で、光圀の招聘に応じて江戸に居住した。
 さらに三年後の元禄八年(1695)には、墓碑の覆堂が建立された。この時、廣嚴寺の堂宇も新たに造立されている。

湊川神社 楠木正成公墓碑

湊川神社 楠木正成公墓碑



 尼崎藩主はその後青山氏から松平(櫻井)氏に替わるが、宝暦元年(1751)松平忠名が燈籠を寄進し、以後代代の藩主が寄進している。



 宝暦九年(1759)には楠木正成の末裔を称する江戸在住の楠伝四郎が、土地を買い上げ、墓所の参道を整備した。
 さらに文化十年(1813)庄屋平野本治らが土地を寄進、墓域はおよそ三百四十坪に拡張された。
 こうして、楠公墓所は整備が進んでゆく。

楠公墓所と明治維新

 江戸時代後期、勤皇思想が広がりを見せる中で楠木正成の再評価がなされ、各地の勤皇家が正成の墓を詣でるようになる。彼らにとってこの地はまさに聖地だった。

 維新志士の思想的拠り所となり、討幕運動に大きな影響を与えた『新論』を著した水戸藩の儒学者会沢正志斎は、正成のように国家に功績のあった人物に対する祭祀を国家によって行うべきと主張した。
「今楠公」と称ばれたほど正成に心酔していた久留米藩の真木和泉守保臣も、正志斎に師事し、その思想を受け継いだ。
 彼らの主張がのちの湊川神社創建へと繋がったと言える。

 幕末・明治の多くの志士や思想家たちが湊川を訪れ、或いは湊川を想い、歌を詠んでいる。その一部を紹介する。

石文と
なりて残れり湊川
かれにし楠のかたき心は 大国隆正


みなと川
身をすててこそたちばなの 
かぐはしき名は世に流れけれ 藤田東湖


行末は
かくこそならめわれもまた
みなとかわらのこけの石ふみ 伊東甲子太郎


月と日の
むかしをしのぶみなと川
流れて清き菊の下水 坂本龍馬


湊川
みぎはのさくらいさぎよき
やまとこころを神もめつらむ 近藤鐸山


水上の
にごらざりせば湊川
いかではかなく泡ときえめや 梅渓通治


いつはあれと
けふはことさら湊川
瀬々の白波袖にかけつつ 三条西季知


我のみか
此国人は湊川
にごらぬ末をはたいこそすれ 壬生基修


 志士たちにとって、楠公墓所という存在が維新を成し遂げる原動力となったと言っても過言ではない。

湊川神社創建へ

 楠木正成を祀る神社を建てることを最初に上申したのは薩摩藩だった。
 元治元年(1864)薩摩藩主島津久光は楠木正成や護良親王、北畠親房ら、南朝の功臣や皇族を合祀した神社を摂津国八部郡(楠公墓の所在地)に創建する旨の建白書を提出し、勅許が出ている。幕府もこれを認めるが、間もなく池田屋事件を発端に上方の情勢が緊迫度を増し、禁門の変(蛤御門の変)などで神社創建どころではなくなり、計画は立ち消えとなった。

 慶応三年(1867)十月の大政奉還から間もなく、今度は尾張藩主徳川慶勝の名で楠公社創建の建白が出された。社地については京都神楽岡を候補に挙げた。
 明治元年(1868)には薩摩藩が再び創建を願い出ている。
 さらには水戸藩も名乗りを上げた。墓碑を建て、いち早く正成を顕彰してきたという自負が水戸藩にはある。黙っているわけにはいかなかった。
 一方、明治新政府は楠公社の創建を国家事業として行うべきと考え、神祇事務局の下での創建へ向けて動き出す。
 明治元年(1868)四月、太政官から神祇事務局に楠公社創建が命じられる。社地は湊川と決まり、具体的な場所の調査がなされ、翌二年(1869)、墓所と殉節地を含む社地が確定した。

湊川神社 楠木正成公殉節地

湊川神社 楠木正成公殉節地



 明治四年(1871)二月より造営が始まり、翌五年(1872)四月には湊川神社の社号が決まった。この時、国家に功績のあった人物を祀る神社の社格として別格官幣社が新たに制定され、湊川神社がその第一号となる。
 こうして明治五年(1872)五月二十四日、湊川神社が創建された。
 その後、空襲で社殿を失うなどの苦難を経ながら、今も神戸を代表する神社として鎮座している。

あだ波を
ふせぎし人はみなと川
神となりてぞ世をまもるらむ 明治天皇


湊川神社 楠公廟 御朱印

湊川神社 楠公廟 御朱印




参考文献:
◇鍋島直身(編)『神戸名勝案内記』 日東館書林 1897
◇大日本名所図会刊行会(編)『摂津名所図会 下巻』(大日本名所図会 第一輯第六編) 大日本名所図会刊行会 1919
◇長屋基彦(編)『湊川神社誌』 湊川神社社務所 1928
◇別格官幣社湊川神社(編)『湊川神社略誌』 別格官幣社湊川神社 1934
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典28 兵庫県』 角川書店 1988
◇長谷川端(校注)『太平記2』(新編日本古典文学全集55) 小学館 1996


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