逃避行

 急な出立だった。
 明日の朝、この村を出て三重谷へと向かう手筈になっていたので、道中召し上がっていただこうと村人たちは夕刻から餅米を蒸し、小豆を炊いてぼた餅を作る準備をしていた。それが急遽夜のうちに出発することになり、仕方ないので蒸しあがったばかりの米に小豆を投入して軽く混ぜ、丸めて竹皮に包むことにした。

 日下部連使臣【くさかべのむらじおみ】と吾田彦【あたひこ】の父子が一人の女性とその子である二人の幼い兄弟を連れて村を訪れたのはつい半月程前のことだ。使臣は母子の素性について語ることはなかったが、やんごとなき身分の人物であろうことは容易に察しがついた。近頃大和で大きな政変があったことは、遠く離れたこの地にも既に伝わって来ている。それに巻き込まれた母子を守るため、使臣は同族の住むこの村を頼って落ち延びて来たのだ。
 二人の童子は兄が八歳、弟が七歳とのことだった。二人とも礼儀正しく、いかにも利発で、高貴さが滲み出ていたが、それでいて身分を笠に着るような振る舞いもなく、村人とも気さくに打ち解けた。
 その間、村長が三重谷の五十日真黒人【いかのまくろうど】に渡りをつけ、匿ってもらうことが決まった。村人たちは兄弟との別れを惜しんだが、三重谷ならここよりも身を隠すのに適しているし、「三重長者」と称ばれる真黒人の許なら心強い。
 そんな矢先、追手が迫っているという報せが入り、急ぎの出発となったのだった。

 急拵えの小豆飯を吾田彦に託し、村人たちは五人を見送った。村の若者の案内の下、一行は峠越えの道を進む。夜明けまでには真黒人の邸に着くだろう。

 兄弟の名は億計皇子【おけのみこ】と弘計皇子【をけのみこ】という。父は去来穂別大王【いざほわけのおおきみ】(履中天皇)の第一皇子市辺押磐皇子【いちのへのおしわのみこ】、母は葛城蟻臣【かつらぎのありのおみ】の娘荑媛【はえひめ】。のちの仁賢天皇と顕宗天皇である。

麓神社の沿革

「元伊勢」として名高い丹後国一宮籠神社【このじんじゃ】からその奥宮眞名井神社【まないじんじゃ】を目指して歩き、眞名井神社の一の鳥居を過ぎてさらに進むと、そこは難波野【なんばの】の集落。
 麓神社はその産土神。

◆麓神社
麓神社

麓神社
【ふもとじんじゃ】


鎮座地: 京都府宮津市難波野上地143

御祭神:
大鷦鷯尊【おおさざきのみこと】(仁徳天皇)
億計尊【おけのみこと】(仁賢天皇)
弘計尊【をけのみこと】(顕宗天皇)

創建: 不詳

社格等: 旧無格社

別称/旧称: 三宝荒神社 梺明神社


◆麓神社
麓神社
 
 境内には巨樹が聳え、古社の佇まいを見せる。
 祭神は仁徳天皇・億計皇子・弘計皇子。創建年代は不明だが、伝承では弘計・億計がこの地を去ったのちにその素性を知った村の者たちが、追慕の念から二皇子とその曾祖父で仁政を行ったとされる仁徳天皇を祀る祠を建てたのだという。「難波野」の地名も難波高津宮を皇居とした仁徳天皇にあやかったものともいう。
 江戸時代には三宝荒神社と称していたことが記録に見える。その後明治七年(1874)の記録に初めて「梺【ふもと】明神社」の名と現在の祭神が確認できる。
 麓神社の名の由来はよくわからない。山上の奥宮に対しての里宮の意ともとれる。だとすれば、眞名井神社の神体山である天香語山に山宮(奥宮)があったのかもしれない。
 麓神社の例祭は飯遣福【いやりふく】(居在福【いありふく】)と称ばれる。これは旅立つ二皇子に赤飯を奉った故事に因んだもので、毎年十一月一日(現在は十二月第一日曜日)神社に赤飯を供えた後、それを氏子で分け合う。
 明治十六年(1883)の村誌取調帳によると、村の北に、この地で病死した二皇子の従者の墓があるという。従者の名は伝わっていない。

◆麓神社 社殿
麓神社 社殿


復讐の連鎖

 億計皇子・弘計皇子の受難について語るには、少し時を遡る必要がある。
 二人が大和を脱出し丹波(のちの丹後)へ逃れる二年前の安康天皇元年(454)、仁徳天皇の皇子大草香皇子【おおくさかのみこ】が殺されるという事件が起こる。安康天皇が弟大泊瀬稚武皇子【おおはつせわかたけるのみこ】(大泊瀬皇子)の妃に草香幡梭姫皇女【くさかのはたびひめのひめみこ】を迎えたいと願ったところ、皇女の兄である大草香皇子は承諾し、今でいうところの結納品として押木珠縵【おしきのたまかつら】という宝冠を献上しようとした。ところが使者として派遣された根使主【ねのおみ】はこの宝冠を我が物とするため、大草香皇子が断ったと虚偽の報告をした。この讒言を信じた天皇により、皇子は誅殺されてしまう。幡梭姫は大泊瀬皇子の妻となり、さらに大草香皇子の妻中蒂姫【なかしひめ】は安康天皇の后となった。大草香皇子と中蒂姫の間には眉輪王【まよわのおおきみ】という五歳の子があったが、父の死後、母とともに宮中に入った。

 安康天皇三年(456)八月、七歳になった眉輪王は、天皇と母が話しているのを偶然聞き、父の死の真相を知る。酒に酔って母の膝枕で眠る安康天皇を、幼い眉輪王は刺し殺してしまう。
 その報せを受けた安康天皇の弟大泊瀬皇子は、兄の八釣白彦皇子【やつりのしろひこのみこ】を問い質し、黙して語らない八釣白彦皇子を斬る。記紀には明記されていないが、大泊瀬皇子は幼子が真犯人であるわけがない、仮に眉輪王が手を下したのは事実としても、裏で誰かが糸を引いているに違いないと確信し、兄を疑ったのだろう。或いは自らの野心のために皇位継承候補の一人である兄に無実の罪を着せ手にかけたか。
 さらに、もう一人の兄坂合黒彦皇子【さかあいのくろひこのみこ】をも疑う。眉輪王と坂合黒彦皇子は葛城円大臣【かつらぎのつぶらのおおおみ】の邸に匿われたが、大泊瀬皇子は邸に火をかけ、円大臣ともども兄と眉輪王を焼き殺した。
 大泊瀬皇子の暴虐は留まるところを知らない。同じ年の十月一日、大泊瀬皇子は従兄弟にあたる市辺押磐皇子を狩りに誘い、馬を駆る市辺押磐皇子を「猪がいる」と言って射殺した。市辺押磐皇子に同行していた張内【とねり】佐伯部売輪【さえきべのうるわ】も殺し、二人の遺体を同じ穴に埋めた。さらに市辺押磐皇子の弟御馬皇子【みまのみこ】を捕らえ、処刑した。そして大泊瀬皇子は天皇に即位する。諡号雄略天皇。
 こうして、市辺押磐皇子の二人の皇子の丹波への逃避行となったのである。
 二人は丹波与謝郡を転転としたのち播磨に至る。その旅路で母は病死し、日下部連使臣は前途を悲観して自殺した。

◆麓神社 社殿 扁額「麓大神」
麓神社 社殿

 素性を隠し、播磨明石の縮見屯倉首【しじみのみやけのおびと】忍海部造細目【おしぬみべのみやつこほそめ】に仕えて牛馬の飼育に携わっていた二人が発見されるのは清寧天皇二年(481)のこと。雄略天皇は崩御し、清寧天皇の代となっていた。大和を離れてから二十五年が経っていた。細目の邸で開かれた宴において弟の弘計が出自を明かしたことにより、二人は子のない清寧天皇の後継者となった。
 清寧天皇五年(484)、清寧天皇が崩御する。二皇子は次期天皇の位を譲り合い決まらなかったため、姉(一説に叔母)の飯豊青皇女【いいとよのあおのひめみこ】が摂政として政務を執った。しかし間もなく飯豊青皇女が亡くなり、翌年弟の弘計が即位した。今があるのは身分を明かした弟の功績であるからと、兄の億計は最後まで固辞したのだった。

 弘計は即位後、父を殺した雄略天皇の陵を破壊して骨を投げ散らしたいと思った。しかし兄の億計は天道に悖るとしてそれを諫める。『古事記』では脚色が施され、さらにドラマティックな展開になっている。億計は陵への報復の役を自ら買って出る。早速出掛けた億計だが、すぐに帰って来る。あまりに早いので不思議に思った弘計が訊ねると、陵のへりの土を少し掘っただけだと言う。それでは復讐にならないと言うと、兄はこう答えた。
「父の仇とはいえ、我らの叔父であり、天下を治めた大王です。その陵を破壊すれば、後世の人はきっと誹謗するでしょう。ただやはり仇として報いずにはいられません。それでへりを少しだけ掘ったのです。後世に示すにはこれで十分でしょう」
 兄の言葉に弟は深く納得した。こうして復讐の連鎖は断ち切られた。

 弘計の皇后には難波小野王【なにわのおののみこ】が迎えられた。『日本書紀』によれば、小野王は允恭天皇の曾孫で磐城王【いわきのみこ】の孫で丘稚子王【おかのわくごのみこ】の娘。しかし磐城王は雄略天皇の子であり允恭天皇の孫となるので、これは誤記ではないかともいう。丘稚子王を女性とし、磐城王の妻とすれば、小野王の両親は磐城王と丘稚子王ということで辻褄は合う。
 顕宗天皇三年(487)弘計(顕宗天皇)が崩御し、兄億計(仁賢天皇)が即位すると、小野王は億計に不敬な振る舞いをしていたことで誅殺されるのを恐れ、自ら命を絶ったという。兄弟の仲の良さと、善政を布いた二人の治世が平和であったことを強調する記紀の記述の中にあって、この部分だけが異様だ。史実の裏にはどんなことが隠されているのだろう。
 麓神社のある難波野では、難波野一帯は丘稚子王の所領であり、難波小野王がこの地の出身であるとする説も唱えられているようだ。

◆麓神社 磐座?
麓神社 磐座?


参考文献:
◇難波野郷土誌編纂委員会『難波野郷土誌』 京都府与謝郡府中村字難波野区 1931
◇小林玄章『丹哥府志』(丹後郷土史料集 第一輯) 龍燈社 1938
◇柴田實/高取正男(監修)『日本歴史地名大系26 京都府の地名』 平凡社 1981
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典26 京都府 上巻』 角川書店 1982
◇小島憲之/直木孝次郎ほか(校注/訳)『日本書紀2』(新編日本古典文学全集3) 小学館 1996
◇山口佳紀/神野志隆光(校注/訳)『古事記』(新編日本古典文学全集1) 小学館 1997
◇宮津市史編さん委員会(編)『宮津市史 通史編 上巻』 宮津市役所 2002


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