創祀

 尼崎の櫻井神社は尼崎藩主であった櫻井松平家の祖信定公を祀る霊社として、旧藩士を中心とする結社「信愛社」有志により創建された。
 明治十三年(1880)五月に署名活動を始める。当時の櫻井家当主にして尼崎藩最後の藩主櫻井忠興は神社奉斎に反対していたが、尼崎城中で祀っていた信定公の神璽を元家老の堀家で預かり引き継いで奉斎していて、その継続という形で諒解を得た。
 最終的に二千四百名を超える署名が集まり、明治十五年(1882)三月ついに着工。当初の建設予定地は尼崎城本丸址だったが県の許可が下りず、「西二の丸南方」の家老級大久保頼母邸址(西大手橋東詰付近)に建てられた。同年十一月二十七日竣工。はじめ「尼崎神社」と称したが、間もなく現社号に改称。
 のち国道四十三号線敷設のため「西三の丸中央」に移転することとなり、昭和三十六年(1961)四月一日に遷宮祭を執行。現在に至る。

◆櫻井神社末社 拝殿
櫻井神社 拝殿

櫻井神社
【さくらいじんじゃ】


鎮座地: 兵庫県尼崎市南城内西三の丸中央116-11

包括: 神社本庁

御祭神:
五十橿戈衝立豊柱根命【いかしほこつきたつとよはしらねのみこと】(初代櫻井信定公)
八桑枝伊耶志美美命【やくわえいやしみみのみこと】(二代櫻井清定公)(配祀)
甘美毘古伊都都賀須命【うましひこいつつかすのみこと】(三代櫻井家次公)(配祀)
伊那多気師毘古命【いなたけしひこのみこと】(四代櫻井忠正公)(配祀)
与呂豆伊加志男命【よろづいかしおのみこと】(五代櫻井忠吉公)(配祀)
稜威多加止母奴志命【いつたかともぬしのみこと】(六代櫻井家広公)(配祀)
毛毛伊曽志比古遅命【ももいそしひこぢのみこと】(七代櫻井忠頼公)(配祀)
青雲伊多多須毘古命【あおくもいたたすひこのみこと】(八代櫻井忠重公)(配祀)
美織阿夜多良志毘古命【うまおりあやたらしひこのみこと】(九代櫻井忠倶公)(配祀)
波奈久波志佐久良命【はなくはしさくらのみこと】(十代櫻井忠喬公)(配祀)
源忠名朝臣命【みなもとのただあきらあそんのみこと】(十一代櫻井忠名公)(配祀)
源忠告朝臣命【みなもとのただつぐあそんのみこと】(十二代櫻井忠告公)(配祀)
源忠宝朝臣命【みなもとのただとみあそんのみこと】(十三代櫻井忠宝公)(配祀)
源忠誨朝臣命【みなもとのただのりあそんのみこと】(十四代櫻井忠誨公)(配祀)
源忠栄朝臣命【みなもとのただながあそんのみこと】(十五代櫻井忠栄公)(配祀)
源忠興朝臣命【みなもとのただおきあそんのみこと】(十六代櫻井忠興公)(配祀)

創建: 明治十五年(AD1882)

社格等: 旧郷社

別称/旧称: 尼崎神社


◆櫻井神社 社号標と参道
櫻井神社 社号標と参道

 明治十九年(1886)二月郷社に列し、同四十五年(1912)三月二十七日神饌幣帛料供進社に指定される。
 創建時は櫻井松平家初代信定公を主祭神、八代忠重公と十代忠喬公を併座として祀っていたようだが、祭神は順次追加され、現在は十六代忠興公までの十六柱を祀る。十代忠喬までは追神号が諡られている。

境内

 南北に細長い社地は尼崎城外堀であった庄下川沿いにある。社殿は南面。

◆櫻井神社 拝殿
櫻井神社 拝殿

 拝殿の軒瓦には桜がデザインされている。櫻井松平家の定紋は九曜紋だが、桜紋(櫻井櫻)も用いられた。これは裏桜紋と称ばれるものの一種で、桜の花を裏から見たもの。花びらの中に萼【がく】が描かれている。

◆櫻井神社 拝殿
櫻井神社 拝殿

 拝殿の前に尼崎城の天守に使われていた軒瓦が置かれている。
 また、昭和十五年(1940)に皇紀二千六百年を記念して建てられた十二代忠告公の句碑は堀にかかっていた本丸橋(琴浦橋)の石杭を利用したもの。なお、杭の礎石は手水鉢に加工された。忠告公は俳諧を嗜み、谷素外に師事して一櫻世亀文【いちおうせいきぶん】と号した。父同様に素外の下で俳諧を学び、一櫻世亀幸【いちおうせいきこう】と号した十三代忠宝公は文政五年(1822)に父の句集『一櫻世発句集』を刊行している。

◆櫻井神社 尼崎城天守棟瓦
櫻井神社 尼崎城天守棟瓦

◆櫻井神社 句碑 「まづ霞む竈々かまどかまどや民の家」
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 ウカノミタマを祀る末社尼崎瓢箪山稲荷神社は、東大阪市の瓢箪山稲荷神社からの勧請。白藤大明神・常磐大明神を相殿に祀る。

◆櫻井神社末社 尼崎瓢箪山稲荷神社
櫻井神社末社 尼崎瓢箪山稲荷神社

 契沖神社は国学の祖といわれる契沖を祀る。契沖は青山氏時代の尼崎藩士下川元全の子としてこの地で生まれた。櫻井神社北の尼崎市立中央図書館前に契沖の碑がある。
 契沖社の左右には多賀社(イザナギ・イザナミ)と出雲社(オオクニヌシ)。

◆櫻井神社末社 契沖社・多賀社・出雲社
櫻井神社末社 契沖社・多賀社・出雲社

◆契沖生誕比定地の碑
契沖生誕比定地の碑


乱世の櫻井家

 櫻井松平家は十八松平の一つに数えられる三河松平氏の分流。
 その初代松平内膳正信定は松平宗家五代長親の三男。宗家を継いだ長兄信忠の曾孫にあたるのが徳川家康だ。兄信忠は惣領としての器量に乏しく、家中には信定を支持する声もあったといわれるが、信定は叔父親房の養嗣子となって跡目争いから外れる。信定は親房の所領である三河国碧海郡桜井(愛知県安城市桜井町)の桜井城を居城とした。
 信忠が松平宗家を継いだものの、大永三年(1523)、一門衆による協議の末、暗愚な信忠を隠退させて嫡男清康に家督を継がせることになった。
 信定は甥の清康に仕えることになるが、おとなしく恭順の態度をとることはなかった。自らが惣領となる野望を捨ててはいなかったようだ。
 息子清定の室に当時松平氏と敵対していた尾張織田信秀の妹(織田信長の叔母)を迎え、また自身の娘を信秀の弟信光(信長の叔父)に嫁がせて、織田家との関係を深めた。信定は清康への対立姿勢を徐徐に鮮明にしてゆく。
 そんな中、大事件が起こる。天文四年(1535)、織田信秀攻略の足掛かりとして、信定の娘婿織田信光を内通させ尾張森山城に入城していた清康が、家臣の阿部正豊に殺されたのだ。世にいう「森山崩れ」だ。一説には背後に信定の画策があったともいわれるが、定かではない。
 清康の遺児竹千代(のちの広忠)はこの時十歳。信定はこの機に乗じ、織田の後援を受けて宗家の居城岡崎城を占拠、竹千代を追放した。
 伊勢に逃れた広忠だったが、駿河今川義元の後ろ楯を得て、天文六年(1537)岡崎城を奪還。信定は広忠に降った。
 翌年信定は死去するが、櫻井二代清定や三代家次も宗家と敵対を続けた。
 四代忠正も三河一向一揆に与して広忠の子松平家康(のちの徳川家康)に反旗を翻すが、一揆鎮圧後家康に服従、忠正は家康の異父妹多劫姫を娶る(忠正死後、多劫姫は忠正の弟五代忠吉に再嫁している)。
 以後櫻井家が宗家に逆らうことはなかった。

櫻井家の転変

 徳川家康の関東移封に従い、櫻井松平家六代家広(四代忠正の子)は武蔵松山一万石の領主となったが、慶長六年(1601)二十五歳で死去。表向きは病死とされているが、家老堀勘兵衛を殺害して家康の勘気を蒙り自害というのが真相らしい。
 その跡を継いだ七代忠頼は五代忠吉の子で、家広にとっては従弟であり、生母がいずれも多劫姫なので異父弟でもある。忠頼の代に美濃金山一万五千石を加えて二万五千石、さらに遠江浜松五万石に転封、櫻井家史上最も大身となった。しかし慶長十四年(1609)、水野忠胤邸での宴席において久米左平次と服部半八郎の口論の仲裁に入り、忠頼は左平次に刺殺されてしまう。その子忠重はまだ九歳で嫡子としての届け出が済んでいなかった為相続を認められず、櫻井家は改易となる。
 翌年、忠重は召し出され武蔵深谷八千石を与えられ旗本となる。元和八年(1622)には上総佐貫一万五千石に入封、大名に返り咲いた。さらに寛永十年(1633)駿河田中二万五千石に移封、翌年五千石を加増されて三万石、その翌年には遠江掛川四万石に転封。
 寛永十六年(1639)八代忠重が死去し九代忠倶が六歳で家督を継ぐが、直後に信濃飯山四万石に国替えとなった。掛川は要衝の地であったので、幼少の者に任せるわけにはいかなかったのだ。
 その子忠継は病弱のため廃嫡、忠継の長男忠敏が嫡子となるも、忠敏は祖父・父に先立って早世。忠継の次男忠喬が家督を継いだ。
 

櫻井家尼崎へ

 櫻井松平家十代忠喬は祖父忠倶死去に伴い元禄九年(1696)家督を相続した。宝永三年(1706)信濃飯山から遠江掛川四万石に再び入封。そして同八年(1711)摂津尼崎四万石に移封され、尼崎藩主としての櫻井松平家の歴史が始まる。
 十一代忠名は忠喬の次男。兄忠義早世の為嫡子となり、忠喬隠居に伴い家督を継ぐ。
 十二代忠告は前述のように俳諧をよくした。松尾芭蕉が居住した芭蕉庵の旧跡が深川元番所の江戸下屋敷内にあったことから、芭蕉庵跡の碑を建てて顕彰した。また大坂天満宮には談林派の祖西山宗因の句碑を建立。また学問を好み、私塾「鳳尾園」を藩校「清凞園」に拡大発展させた。
 十三代忠宝の子十四代忠誨には世子がなく、叔父にあたる忠栄(十二代忠告の九男)を養嗣子とした。
 文久元年(1861)十五代忠栄が隠居し、七男忠興が十六歳で家督相続。

◆櫻井神社 北鳥居と本殿
櫻井神社 北鳥居と本殿


櫻井家と赤十字社

 櫻井松平家十六代松平遠江守忠興は第七代尼崎藩主。
 世は幕末。京・大坂の情勢が不穏になる中、領内に砲台を築造、また農兵を集めて鉄砲の調練を行うなど自領の警備を固めた。
 元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)の際には伊丹・西宮一帯を守衛。長州征討には態度を鮮明にしなかったが、慶応四年(1868)鳥羽・伏見の戦いで新政府側につき、この時櫻井に改姓する。それは徳川家との訣別を意味した。
 戊辰戦争終結後所領を安堵され、明治二年(1869)の版籍奉還で尼崎藩知事となり、同四年(1871)の廃藩置県で知藩事を免ぜられた。同六年(1873)尼崎から東京へ移住。
 明治八年(1875)大神神社(奈良県桜井市)の大宮司に就任するが、同十年(1877)西南戦争が始まるとこれを辞し、東京へ戻る。それは元信濃龍岡藩主大給恒【おぎゅうゆずる】(旧名松平乗謨【のりかた】)や元佐賀藩士佐野常民【さのつねたみ】らが中心となって創立した「博愛社」の活動に参加する為だった。博愛社は敵味方の区別なく負傷者の救護を行う赤十字精神の下に設立された結社(日本赤十字社の前身)。忠興は東京の自邸を事務所として提供し、多額の準備金を寄付。さらに医師らを伴って自ら九州に赴き、各地に仮設病院を設置して人道活動に尽力した。その功績が認められ、日本赤十字社より最高の勲章である有功章を授与されている。
 忠興は明治二十八年(1895)、岡田山(兵庫県西宮市)の別邸で死去する。四十八歳だった。
 櫻井神社には博愛社の記念碑が建てられ、忠興の偉業を讃えている。

◆櫻井神社 博愛社記念碑
櫻井神社 博愛社記念碑

 博愛社が日本赤十字社となって三年後の明治二十三年(1890)櫻井神社敷地内に開園した「博愛幼稚園」は、博愛社の名が消えるのを惜しんで名付けられた。開園にあたって地蔵菩薩像が安置された。それが今も櫻井神社境内に残る「博愛地蔵」だという。

◆櫻井神社 博愛地蔵
櫻井神社 博愛地蔵

◆櫻井神社 御朱印
櫻井神社 御朱印


参考文献:
◇兵庫県神職会(編纂)『兵庫県神社誌 上巻』 兵庫県神職会 1937
◇『新訂 寛政重修諸家譜 第一』 続群書類従完成会 1964
◇三浦譲(編纂)『全国神社名鑑 下巻』 全国神社名鑑刊行会史学センター 1977
◇安孫子朝文(編著)『櫻井神社物語 百年祭記念誌』 櫻井神社奉賛会 1982
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典28 兵庫県』 角川書店 1988
◇兵庫県立歴史博物館(編集)『尼崎桜井神社の文化財』 兵庫県立歴史博物館 1992
◇工藤寛正(編)『徳川・松平一族の事典』 東京堂出版 2009


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