合祀と復社

 高塚山の麓を発して和泉市内を北流する松尾川。その流域を松尾谷と称ぶ。
 松尾谷は古くから開けた土地で、その中でも最初に人びとが住み始めたのは、かつての和泉国府にも近い谷北部であった。六世紀頃には物部支族の韓国連【からくにのむらじ】がこの地に勢力を伸ばし始めたという。彼らが拠点とした唐国の北隣に位置する箕形の地に、八坂神社が鎮座する。
 箕形町の北部には古代条里制の遺構がみられ、「三ノ坪」「九ノ坪」といった字名が残る。鎌倉期には箕形熊石丸なる御家人の名が見え、当地を本貫としたと推定される。また南北朝期には南朝将士が砦を築いたことでも知られる。この箕形城は北朝方の日根野道悟に攻められて陥落、廃墟となったという。

◆八坂神社
八坂神社

八坂神社
【やさかじんじゃ】


鎮座地: 大阪府和泉市箕形町五丁目土井1-1

包括: 単立

御祭神:
素戔嗚尊【すさのおのみこと】

創建: 不詳

社格等: 旧村社

別称/旧称: 牛頭天王社 天王社


 箕形八坂神社は箕形町のほぼ中央、大きく蛇行する松尾川の南岸に建つ。
 松尾川にかかる橋のたもとに狛犬と燈籠があり、その向こうに石鳥居。扁額には「八坂神社」とある。鳥居の先は広場になっていて、その端に拝殿と手水舎。川の対岸に地車【だんじり】庫が見える。
 拝殿は瓦葺の割拝殿形式。前面には金網のフェンスが設置してあり、ボール遊びやゴルフの練習を禁じる注意書きが掲げられている。扉は閉ざされていて、本殿を間近で拝することはできなかった。

◆八坂神社 拝殿
八坂神社 拝殿

 江戸時代には箕形村の鎮守として牛頭天王を祀っていた。境内には長福寺という宮寺があった。長福寺は延宝五年(1677)と推定される『泉州泉郡箕形村里方絵図』では高野山宝生院末寺、元禄九年(1696)の村明細帳では久米田寺明王院(岸和田市池尻町)末寺となっている。
 明治に入って長福寺は廃寺となり、牛頭天王社は明治五年(1872)に村社八坂神社となった。
 その後箕形村は寺田村・唐国村・内田村と合併して北松尾村となる。
 明治三十九年(1906)、一村一社の原則を掲げる神社合祀令が発布され、同四十一年(1908)九月十九日、箕形八坂神社は南松尾村春木の春日神社に合祀された。北松尾村・南松尾村の神社は悉く同社に合祀され、消滅する。


 合祀後の箕形の人びとの産土神はおよそ四キロメートル離れた春木春日神社になった。祭礼の日には、子供たちは学校の先生に引率されて春木までお詣りに行ったという。この時学校から子供たちに紅白饅頭が配られた。

 合祀から半世紀が過ぎた昭和三十五年(1960)、八坂神社の復祀が叶い、箕形に戻ることとなった。社殿が再建され、神霊はかつての鎮座地に改めて祀られたのだった。

◆八坂神社 鳥居
八坂神社 鳥居


宮座と祭礼

 八坂神社には宮座があったが、春木春日神社への合祀とともに廃絶した。
 総戸数およそ百戸のうち、座筋の家は半数のおよそ五十戸で、座に入るのは長男のみ。長男が生まれるとその家に宮年寄(十人衆)が赴き、座入帳に帳付けをした。十人衆は一年間神社にお膳上げをし、毎日朝晩に社の掃除をした。正月十一日、四月八日(花祭)、七月十六日の年三回、その年の当屋が十人衆を招いて接待をした。

◆八坂神社 拝殿馬道
八坂神社 拝殿馬道

 毎年一月十日には戎祭が催行される。祭礼が近づくと町内各所に幟が掲げられる。かつては祭の前日に戎神像を木版刷りした神札を氏子各戸に配ったという。この版木は古くから神社に伝わるもので、合祀の時に春日神社に収められたが、のちに箕形住民の熱望によって返還されたそうだ。
 戎神はおそらく八坂神社の境内社として祀られていると思われるが、拝殿の向こうを視認することができなかったため、定かにはわからない。

 十月の秋の例祭には地車が出される。合祀されていた間は春日神社に宮入りしていた。地車は終戦後から昭和三十八年(1963)まで曳行されたが、事故があって一旦途絶している。この地車は売却されて箕形町には長らく地車が無かったが、その後平成十四年(2002)に地車を新調して復活。

牛神祭

 これらの祭礼の他に、牛神祭があった。
 牛神信仰は泉州各地で盛んだったが、今ではすっかり廃れてしまっている。農作業に欠かせない存在だった牛への感謝から生まれた信仰だといわれる。
 牛神は地域によって様様な形で祭祀されるが、箕形では松の木に祀られていた。
 八月七日、牛神を祀る松の前に子供たちが集まる。土をこねて牛の形を作り、松の若芽の角、枇杷の葉の耳、薄の尾、小石の歯をつけて牛神様のできあがり。完成した牛神に食べ物を供え、子供たちはお下がりをいただく。そんな素朴な神事だった。
 箕形の牛神祭は昭和四十五年(1970)頃に廃絶してしまった。どの農家にも牛がいた光景も今は昔。牛が姿を消すとともに祭の存在意義も失われてしまったのだろう。
 牛神の松はその後枯れてしまったという。昭和五十七年(1982)の和泉市PTA文庫『市内の神社と祭り』には和泉中央病院の中庭に切株が残っていると書かれているが、行ってみたものの見つけることはできなかった。既に無いものと思われる。祭が行われなくなって五十年近くが経ち、痕跡すら消え去ってしまった。
 ところで、牛神には牛頭天王や、牛を神使とする菅原道真(天満天神)との習合が見受けられる。和泉や岸和田には牛頭天王を祭神とした八坂神社や道真を祀る菅原神社が多い。おそらく牛神信仰が先にあって、そこに牛頭天王や菅公が結びついたのだろう。箕形の八坂神社もまた、牛神に牛頭天王が重ねられたことから勧請されたと推測できる。


参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之五』 大阪府全志発行所 1922
◇大越勝秋「和泉市における宮座2」『阪南論集 第十一巻第一号』 阪南大学 1975
◇和泉市PTA協議会文化委員会(編)『市内の神社と祭り』(和泉市PTA文庫 第4集) 和泉市PTA協議会文化委員会 1982
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇和泉市史編さん委員会(監修)『和泉市の歴史2 松尾谷の歴史と松尾寺』 和泉市 2008
◇塚田孝(監修)/和泉市史編さん委員会(編集)『和泉の村の明細帳I』(和泉市史紀要 第20集) 和泉市教育委員会 2014
◇塚田孝(監修)/和泉市史編さん委員会(編集)『和泉の寺社改帳I』(和泉市史紀要 第24集) 和泉市教育委員会 2016




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