◆青岸渡寺 本堂
青岸渡寺 本堂


西国巡礼

 西国三十三所観音巡礼は、およそ千三百年の歴史を持つといわれる日本最古の巡礼行。紀伊・和泉・河内・大和・山城・近江・丹波・摂津・播磨・丹後・美濃の十一ヵ国、現代の行政区分でいうと和歌山・大阪・奈良・京都・滋賀・兵庫・岐阜の七府県にまたがる三十三の観音霊場を巡拝する。
 三十三という数字は法華経の『観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)が説くところの、観音菩薩が三十三の姿に化身して衆生を救うという三十三身普門示現の考えに基づく。

 伝承によれば、西国巡礼開創は奈良時代に遡る。
 養老二年(718)、大和長谷寺(西国第八番)の徳道上人が病によって亡くなり、冥土で閻魔大王と対面する。上人は閻魔大王より、生前の悪行によって地獄へ送られる者を救うため滅罪の功徳を得られる観音霊場巡礼を広めるように告げられ、起請文と三十三の宝印を授かって現世に戻される。上人は宝印に従って三十三所の霊場を定めるが、世人に深く受け入れられなかった。今はまだ機が到来していないと考えた上人は、宝印を摂津中山寺(西国第二十四番)の石櫃に納めた。
 それからおよそ二百七十年が過ぎ、三十三所巡礼は花山法皇によって復興される。中山寺に秘蔵されていた宝印を熊野権現のお告げによって見つけ出した法皇は、実は熊野権現の化身である佛眼上人や播磨圓教寺(西国第二十七番)の性空上人の勧めにより、両僧を伴って巡礼に赴いた。中山寺の弁光僧正や丹後松尾寺(西国第二十九番)の威光上人らが同行したともいう。これによって巡礼が世に広まっていった。笈摺や納め札といった巡礼方式は佛眼によって定められたといい、また各札所の御詠歌は花山院の御作とされる。
 縁起譚に様様な人物が登場するのは、それぞれの札所が巡礼を広める為の説話に自寺の高僧や所縁の人物を絡めたものがまぜこぜになった結果だろう。札所間勢力関係の時代による変遷も窺える。
 中でも花山院が説話の主役に位置づけられているのは、第一番札所である那智山青岸渡寺の喧伝によるところが大きいと思われる。那智には花山院が参籠した庵であるとか、院が寄進した仏像であるとか、院が龍神から授かった宝珠であるといったような伝承が数多くある。花山院は熊野信仰の中で重要な地位を占めているのだ。中世に熊野詣が盛んになることで西国巡礼における那智山の力が強まり、花山院を巡礼の中興とする伝承が広まったのだろう。また、青岸渡寺は近世以降、西国三十三所を三十三度巡礼する「三十三度行者」と称ばれた者たちを統轄する立場にあった。この三十三度行者や熊野比丘尼といった者たちが花山院説話の伝播に重要な役割を担っただろう。
 当初の一番札所が長谷寺であったのが、青岸渡寺が一番となり、それが固定化したのも、背景に彼らの活躍があったと思われる。



那智の如意輪堂

 景行天皇の御代、小さな船が紀伊半島に漂着した。船がどこへ向かっていたかはわからないが、天竺のいずこかの港を出て、嵐に遭って遥か熊野の海まで流されたのだった。
 乗っていた七人の天竺人のうち六人は本国に帰ったが、一人の異僧が熊野に残った。
 僧の本当の名は伝わっていない。常に上衣を着けていなかったことから、裸形【らぎょう】上人という名で称ばれた。

西国三十三所 第一番
那智山青岸渡寺
【なちさんせいがんとじ】


所在地: 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8

宗派: 天台宗

御本尊:
如意輪観世音菩薩

創建: 仁徳天皇御宇(AD313~399)

開山: 裸形上人

別称/旧称: 如意輪堂

御詠歌: 補陀洛や岸打つ波は三熊野の那智のお山にひびく滝津瀬


◆青岸渡寺 本堂
青岸渡寺 本堂

 裸形(裸行とも)は始め新宮のゴトビキ岩(神倉神社の御神体)で修行をしたという。修行を続けること二百年、仁徳天皇の御代になって、那智に居を移した。裸形は那智の大滝を気に入り、新たな修行場所に選んだ。
 一説に、「那智」はサンスクリット語で河川を表すNadī【ナディー】(那提)に由来するという。裸形が滝、或いは那智川をそう称んだのだろうか。他に、峻険な地勢であることから「難地」の義とする説、アイヌ語で「水落ちる地」を表すとする説もある。
 滝で修行に励んでいた裸形は、ある日滝壺で高さ八寸(およそ二十四センチメートル)の如意輪観音像を感得した。裸形は草堂を結んでこれを安置し、ついに遷化するまで朝夕の勤行を怠らなかった。
 さらに二百年ほど過ぎた推古天皇の御代に、大和の生佛上人なる僧が勅命によって那智山を訪れ、裸形の草庵址に堂宇を造営した。像高一丈(およそ三メートル)の如意輪観音を彫刻して本尊とし、その胸に裸形の感得した観音像を納めたと伝える。これが西国三十三所第一番青岸渡寺の始まりだという。

◆那智の滝
那智の滝

 青岸渡寺と隣接する熊野那智大社は本来一体のものだった。如意輪堂と通称された青岸渡寺は那智大社の供僧寺だった。明治の神仏分離によって熊野三山のうち本宮大社・速玉大社では全ての仏教施設が廃された。那智大社でも、最盛期には七寺三十六坊という規模を誇った仏堂の殆どが取り壊される中で、西国札所であった為か如意輪堂だけは破却を免れたものの、本尊・什物は宝泉寺や補陀洛山寺に移され、空堂となった。
 その後明治七年(1874)、信者らの願いによって如意輪堂は那智大社から独立、青岸渡寺として復興し、現在に至る(青岸渡寺という寺号自体は江戸時代から使用されている)。

伽藍

 貞応二年(1223)、元亨二年(1322)、享禄四年(1531)、天正九年(1581)と那智山は何度も火災に遭っているが、その度に復興を遂げて来た。
 本堂(如意輪堂)は天正十五年(1587)から三年をかけて豊臣秀吉が再建。桃山時代の建築の特徴をよく備えており、国の重要文化財。
 三重塔は昭和四十七年(1972)の再建。大滝とともにフレームに収まる朱色の三重塔は那智を代表する定番の被写体。

◆青岸渡寺 三重塔
青岸渡寺 三重塔

 本堂背後に建つ如法堂は、那智大社の北西百メートルほどのところにあった如法道場の流れを汲む仏堂で、本尊大黒天は伝教大師最澄の作とも伝える。那智山千日行者の如法経修行の場だった如法道場は天正の火災で焼失しているが、元和年間(1615~1624)に春海阿闍梨が再建。のち神仏分離で撤去された。

◆青岸渡寺 如法堂(大黒天堂)
青岸渡寺 如法堂(大黒天堂)

 元亨二年(1322)の銘がある宝篋印塔は国の重要文化財。

◆青岸渡寺 宝篋印塔
青岸渡寺 宝篋印塔


裸形上人は何者か

 青岸渡寺の縁起において天竺から渡来して那智山を開いたことになっている裸形上人とは一体何者なのか。その正体について、江戸時代の諸書が幾つかの説を唱えている。
 嘉永六年(1853)刊行の『西国三十三所名所図会』では『観音冥応集』に記述があるとして、青岸渡寺の縁起同様「天竺の沙門」としている。
 文化八年(1811)から嘉永四年(1851)にかけて刊行され、のち昭和十二年(1937)に未定稿を校訂加筆して『熊野篇』が出版された『紀伊国名所図会』は、花山院を西国巡礼へと導いた佛眼上人を裸形上人と同一人物ではないかと記している。異相の人物である点は似ているし、一方は熊野権現の化身、もう一方は那智山の開山と、ともに熊野との関わりがある。
 天保十年(1839)完成の『紀伊続風土記』は『日本霊異記』に見える二人の人物を候補に上げる。
 一人は「法花経を憶持する者の舌曝りたる髑髏の中に著きて朽ちざる縁」に見える永興禅師。常日頃法華経を読誦していた僧が、死んで白骨になっても舌だけは腐らず、三年もの間法華経を誦え続けたという説話だが、永興はその僧の師として登場する。奈良時代に奈良東大寺の別当を務めた人物で、熊野に住していたことがあり、南方にいる故に「南菩薩」と称されたという。



 もう一人は「如法に写し奉る法花経火に焼けぬ縁」の「牟婁の沙弥」。紀州牟婁郡榎本氏の人で、心身を清め、半年をかけて彼が写経した法華経が、火事に遭っても焼けなかったという話。榎本氏は宇井・鈴木とともに熊野三党に数えられる。三党は熊野地方の有力豪族で、熊野速玉大社の神職を世襲した。
『熊野那智大社文書』に含まれる系図によると、熊野本宮大社を創祀した熊野部千与定の二男が裸形上人だという。そして三男長寛長者の後裔に熊野三党が連なっている。ちなみに役行者は千与定嫡子雅顕長者の生まれ変わりとする。
『熊野那智大社文書』の別の文書では、裸形上人の実名を「重慶」としている。重慶は鎌倉末期に尊勝院に住し那智山執行職を務めた人物だという研究がある。尊勝院は青岸渡寺の子院で那智最古の執行職屋敷。裸形上人開山と伝える。
 いずれにしても、熊野の山山を跋扈する行者のイメージが投影されて裸形上人の人物像が形作られていったことが窺える。

◆青岸渡寺 御朱印 「普照殿」
青岸渡寺 御朱印 「普照殿」


参考文献:
◇和歌山県神職取締所(編纂)『紀伊続風土記 第三輯』 帝国地方行政学会出版部 1910
◇林英夫(編)『日本名所風俗図会18 諸国の巻III 』 角川書店 1980
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典30 和歌山県』 角川書店 1985
◇鈴木棠三(編)『日本名所風俗図会12 近畿の巻II』 角川書店 1985
◇永島福太郎/小田基彦(校訂)『熊野那智大社文書 第五 潮崎萬良文書 橋爪文書』 続群書類従完成会 1992
◇出雲路修(校注)『日本霊異記』 岩波書店 1996
◇加藤隆久(編)『熊野三山信仰事典』 戎光祥出版 1998
◇速水侑(編)『観音信仰事典』 戎光祥出版 2000


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