生國魂神社 御朱印当て紙


干支朱印

 生國魂神社では、毎年一月にその年の十二支を表す動物(十二生肖)の姿をあしらった干支朱印をいただくことができる。
 平成二十六年(2014)以前にいただいた干支朱印をまとめて。

◆生國魂神社 干支朱印 辛卯歳
生國魂神社 干支朱印 辛卯歳

◆生國魂神社 干支朱印 壬辰歳
生國魂神社 干支朱印 壬辰歳

◆生國魂神社 干支朱印 癸巳歳
生國魂神社 干支朱印 癸巳歳

◆生國魂神社 干支朱印 甲午歳
生國魂神社 干支朱印 甲午歳




生國魂神社
【いくくにたまじんじゃ】


鎮座地: 大阪府大阪市天王寺区生玉町13-9

包括: 神社本庁

御祭神:
生島大神【いくしまのおおかみ】
足島大神【たるしまのおおかみ】
大物主大神【おおものぬしのおおかみ】(相殿)

創建: 神武天皇即位前紀己未年(BC663)

創祀: 神武天皇

延喜式神名帳: 攝津國東生郡 難波坐生國咲國魂神社二座 並名神大 月次相嘗新嘗

社格等: 旧官幣大社 別表神社

別称/旧称: 生玉神社 難波大社


押し照る難波八十島

 太古、大阪平野はその殆どが海に覆われていた。東は生駒山地、北は千里丘陵、南は河内台地と泉北丘陵に至るまで遠浅の海が入り込み、河内湾を形成していた。そして西には現在「上町台地」と称する半島状の地形が南から北に向かって河内湾に蓋をするように延びていた。
 その半島の北の突端「難波碕」が生國魂神社の当初の鎮座地だった。今の大阪城の辺りだ。
 半島は時代を経るに従って砂州先端を北に発達させ、千里丘陵に迫って湾口をほぼ塞いだ。こうして河内湾は河内湖となり、淀川や大和川の水が流入して徐徐に淡水化してゆく。
 川の運んだ土砂によって河内湖は少しずつ縮小してゆくとともに、堆積した土砂が洲となり、「難波八十島【なにわやそしま】」と称ばれる幾つもの島が生まれた。福島・都島・中之島・堂島などなど、「島」のつく地名が多いのはその名残だ。

八十島祭と生島足島神

 新たな天皇が即位すると大嘗祭が斎行される。そしてその翌年、難波津に勅使を遣わして行われたのが八十嶋神祭。鎌倉時代に廃絶するが、かつては即位儀礼の一環として重要な祭祀だった。
 巫女らを従えた祭使が天皇の衣を入れた箱を奉持して難波津に下向し、海辺の祭場で箱を開き、琴の音に合わせてこれを振るという神事だったらしい。

『延喜式』によると、「八十嶋神祭」の祭神は「住吉神四座 大依羅神四座 海神二座 垂水神二座 住道神二座」となっている。しかし祭使には生嶋巫【いくしまのみかんなぎ】が従っている。生嶋巫の祀る神は宮中神三十六座のうちの生嶋神【いくしまのかみ】・足嶋神【たるしまのかみ】であり、八十島祭の主神は本来この二神であったとみられる。住吉大社の力が増し、住吉神が前面に出ることで生島足島神の影が薄れ、いつしか忘れられてしまったのだろう。長暦元年(1037)住吉大社の主張によって八十島祭の祭場が熊河尻から住吉代家浜に移されているのは、住吉神の影響力が増大したことの一端を示す。
 なお、生國魂神社と八十島祭の直接の繋がりは不明だが、同社が難波津の地に鎮座し、生島神・足島神を祀ることから、何らかの関連はあっただろう。八十島祭の元来の祭場であったかもしれない。

 八十島祭は、難波八十島を大八洲【おおやしま】即ち日本国土全体に見立て、「国魂」たる生島足島神を招魂して衣に憑着させ、それを新天皇が纏うことで国土支配者としての資格を裏付け、祝福する祭祀だったのだろう。
 土砂が堆積してやがて島が形成されてゆく様は、神話に語られる国生みのイメージへと繋がっていった。難波八十島は国土創成の根元であったとも言えそうだ。

◆生國魂神社
生國魂神社


参考文献:
◇下中弥三郎(編)『神道大辞典 第三巻』 平凡社 1941


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