◆諏訪神社(船尾町西)
諏訪神社(船尾町西)

船尾の産土神

 三韓征伐を終えて帰国する神功皇后の船団最後尾の船がこの地の海岸に着いたことからその名があるという和泉国大鳥郡船尾村は、明治二十二年(1889)に下石津村・下村と合併して浜寺村大字船尾となる。
 一村一社の原則を掲げる神社合祀令が出されたのは明治三十九年(1906)のこと。これにより大阪府の神社数は三割近くに減ったという。
 船尾には村社諏訪神社と無格社八幡神社があったが、明治四十年(1907)十二月十日、ともに下石津の石津太神社に合祀された。



 諏訪神社は船尾の産土神として、字宮前、現在の浜寺諏訪森町東一丁付近の「諏訪明神の森」と称ばれた広大な杜の中に鎮座していた。
 安政二年(1855)に社殿を再建したことを記録した棟札が伝えられている。そこには「神宮寺社僧 慈海」の名が記されており、当時は社僧により奉祭されていたことがわかる。九頭龍神を祀って「九頭大明神」と称していたらしい。
 明治初年、神仏判然令によって神宮寺は廃絶している。

 諏訪神社の宮座は東西南北の四組に分かれ、各組八軒ずつが持ち回りで当座を務めた。一月二十五日と九月二十五日の座日には年長の者から順に羽織袴をつけて座り、宴を開いた。座田を持っており、そこでとれた米を神供とした。明治十七年(1884)頃に廃止された。

船尾町西の諏訪神社

 諏訪神社の神霊が石津太神社の南殿に遷された後、船尾の住民達は協議し、石津太神社まで行かずとも神を拝せるようにと、明治四十二年(1909)五月、現在の浜寺船尾町西一丁に旧諏訪神社の鳥居と灯籠を移し、石碑を建てて遥拝所とした。
 その後、社殿が建てられ、改めて神霊が祀られたようだ。「諏訪神社遥拝所」と刻んだ石碑は社殿の傍らに今も残されている。

◆諏訪神社(船尾町西)
諏訪神社(船尾町西)

諏訪神社
【すわじんじゃ】


鎮座地: 大阪府堺市西区浜寺船尾町西一丁63-1

御祭神:
建御名方富命【たけみなかたとみのみこと】

創建: 不詳

社格等: 旧村社

別称/旧称: 九頭大明神 諏訪神社遥拝所


◆諏訪神社(船尾町西)
諏訪神社(船尾町西)


諏訪森町東の諏訪神社

 鳥居と灯籠が遥拝所に移された後、諏訪神社の旧社地は片隅に末社の小さな祠が残るのみとなっていた。
 戦後、日本聖公会の堺聖テモテ教会が櫛屋町から諏訪神社跡地に移転して来ることになる。この時地元の田中瑞穂氏が教会側と交渉し、末社が建つ土地の北部分を買い上げて、昭和二十五年(1950)五月、末社に新たに諏訪神社の祭神を迎え祀った。こうして諏訪神社は四十三年振りに元の鎮座地に戻った。

◆諏訪神社(諏訪森町東)
諏訪神社(諏訪森町東)


諏訪神社
【すわじんじゃ】


鎮座地: 大阪府堺市西区浜寺諏訪森町東一丁73

御祭神:
建御名方命【たけみなかたのみこと】
天之手力男之命【あめのたぢからおのみこと】
武龍命【たけりゅうのみこと】

創建: 不詳

社格等: 旧村社

別称/旧称: 九頭大明神


◆諏訪神社(諏訪森町東)
諏訪神社(諏訪森町東)


南海諏訪ノ森駅

 諏訪神社が石津太神社に合祀された十日後の明治四十年(1907)十二月二十日、現在の浜寺諏訪森町西二丁に南海鉄道北浜寺駅が開業した。この駅は翌四十一年(1908)十二月一日に「諏訪ノ森駅」に改称している。合祀によって産土神を失った船尾の人びとの、せめて諏訪明神の名だけでも残したいという思いが通じたのだろうか。後に「諏訪森」は地名にも採用された。
 浜寺の白砂青松と海の向こうの淡路島を描いたステンドグラスがはめ込まれた諏訪ノ森駅舎は、国の登録有形文化財となっている。

◆諏訪神社(諏訪森町東)
諏訪神社(諏訪森町東)

 一度は合祀され廃絶した諏訪神社は、遥拝所から再び神社となった船尾町西の社と、旧地に復した諏訪森町東の社の二社に分かれて存続し、地名にもその名を刻む。
 信仰の火はたやすく消えない。そのことを証明している。

参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之五』 大阪府全志発行所 1922
◇小葉田淳(編)『堺市史 続編 第一巻』 堺市役所 1971
◇式内社研究会(編)『式内社調査報告 第五巻 京・畿内 5』 皇學館大学出版部 1977
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983


大きな地図で表示

このエントリーをはてなブックマークに追加