最古の戎神社

 神代の昔。
 伊弉諾命いざなぎのみこと伊弉册命いざなみのみことの間に生まれた蛭子命ひるこのみことは、三歳になっても立つことができなかったため、天磐樟船あめのいわくすぶねに乗せて海に流された。
 船は波のまにまに風のまにまに漂い、ある海岸に流れ着いた。蛭子命が携えて来た五色の神石を置いたことから、その地を石津いしづと称し、船の漂着した所を石津の磐山いわやまというようになった。
 それから遥かに時を経て、五代孝昭天皇の御代、蛭子命を祀る社殿を建てたのが石津太いわつた神社の始まりだという。我が国最古の戎社と称している。

石津太神社 拝殿

石津太神社 拝殿



石津太神社
【いわつたじんじゃ】
鎮座地大阪府堺市西区浜寺石津町中四丁飯田12-7
包括神社本庁
御祭神蛭子命【ひるこのみこと】
八重事代主命【やえことしろぬしのみこと】
天穂日命【あめのほひのみこと】(配祀)
建御名方富命【たけみなかたとみのみこと】(相殿)
誉田別命【ほんだわけのみこと】(相殿)
天照皇大神【あまてらすすめおおかみ】(相殿)
豊受姫大神【とようけひめのおおかみ】(相殿)
伊弉諾大神【いざなぎのおおかみ】(相殿)
伊弉美大神【いざなみのおおかみ】(相殿)
創建孝昭天皇七年(BC469)
延喜式神名帳和泉國大鳥郡 石津太社神社
社格等旧村社
別称/旧称蛭子神社 戎神社 浜の戎 天神


石津太神社 鳥居と社号標

石津太神社 鳥居と社号標



 石津太神社は旧大鳥郡下石津しもいしづ村の鎮守。紀州街道沿いに東面して鎮座する。
 延喜式神名帳内の石津太社神社(石津太神社)に比定される古社だが、上石津村(現堺市堺区石津町)の石津神社も同式内社の論社となっている。
 石津村が正式に上下に分かれたのは江戸前期の慶安三年(1650)のことだが、室町中期の史料には既に「上石津」「下石津」の称が見え、早くから実質的に分かれていたものとみられる。
 どちらか一方が本社で、分村の際にもう一方に分霊を祀るといった経緯があったものと推測できるが、記録が残っておらずどちらが本社とも断じ難い。明治時代に紛議があったが、当時の堺県は裁断を下すことができず、ともに式内社と認めたという(『大阪府史蹟名勝天然記念物』)。
 元禄十三年(1700)の『泉州志』は石津神社の所在を下石津村とし、上石津村の石津神社には触れていない。『泉州志』から三十年程下った『和泉志』は下石津村の石津太神社を式内、上石津村の石津神祠を式外としている。



石津太神社 拝殿

石津太神社 拝殿



 明治五年(1872)に村社に列した石津太神社は、同四十年(1907)神饌幣帛料供進社に指定され、同じ年に旧船尾村字宮前の村社諏訪神社(健御名方命)と旧船尾村字垣内の無格社八幡神社(誉田別命)を合祀した。また昭和二十年(1945)には大阪市西区靱本町うつぼほんまちにあった靱大神宮(神宮奉斎会大阪本部)を合祀している。






祭神諸説

 石津太神社の本殿は南北二殿あり、ともに江戸時代前期の造営。向かって右の北本殿は一間社流造、南本殿は一間社春日造と造りを違えているが、破風などの装飾を統一することで正面から見ると全く同じ形となっている。拝殿は入母屋造の割拝殿形式で、南北両殿の前に馬道めどうがそれぞれ設けられている。

石津太神社 拝殿馬道(北本殿)

石津太神社 拝殿馬道(北本殿)



石津太神社 拝殿扉(南本殿)

石津太神社 拝殿扉(南本殿)



 北殿の祭神は蛭子命・八重事代主命・天穂日命。蛭子命と事代主命はともに戎神と同一とされる神で、その両方が祀られているのは珍しいかもしれない。天穂日命は当社の祭祀氏族とみられる石津連いしづのむらじの祖神。
 南本殿は合祀した諏訪神社の建御名方富命、八幡神社の誉田別命、靱大神宮の天照皇大神・豊受姫大神・伊弉諾大神・伊弉美大神を祀る。

石津太神社 北本殿

石津太神社 北本殿



 江戸時代の寺社改帳に「一、蛭児社」「一、天神社」とあり、また拝殿建立の勧進帳(寺社の建立・修理のために寄付金を募る旨を記した文書)には「戎太神宮」「天満天神」とあることから、当時は二つの本殿に戎神と菅原道真を祀っていたとみられる。但し、『和泉名所図会』の「下石津太神社」の絵図は北殿に「蛭子神」、南殿に「事代主」と記している。
 祭神については、度会延経の『神名帳考証』が伊毘志都幣命いいしつべのみことを挙げている。また『神祇志料』は野見宿禰のみのすくねとする。どちらも天穂日命の系譜に連なり、石津連の祖。ちなみに菅原道真も野見宿禰の後裔であり、同族にあたる。天穂日命にせよ、伊毘志都幣命や野見宿禰にせよ、石津連が祖神を祀ったのが石津太神社の始まりだろう。
 なお、『和泉国式神私考』は伊毘志都幣命を事代主命の別名としている。
 また、『泉州志』は式内「石津太神社」を「以之都意富神社いしつのおふのかむやしろ」と訓むとし、大和国十市郡多坐彌志理都比古おおにますみしりつひこ神社と同神、すなわち多(太)氏の祖神を祀るとする。『特選神名牒』も和泉国の国内神名帳に「石津社」とあることを指摘して同説をとる。

石津太神社 戎神腰掛石と戎神像

石津太神社 戎神腰掛石と戎神像



 江戸時代には活発な勧進活動をしていたようで、明和六年(1769)に江戸湯島天神と大坂坐摩神社で出開帳を行っている。
 その前年には神札領布をめぐる西宮神社(戎神社の総本社とされ、石津太神社と同様の蛭子漂着伝承がある)との係争について和解が成立したという記録がある。「本邦最初の戎社」の名を喧伝して一定の知名度があったものと見受けられる。

石津太神社末社 磐山稲荷社

石津太神社末社 磐山稲荷社



 境内末社の磐山稲荷社は弘化四年(1847)の勧請で、倉稲魂神うかのみたまのかみを祀る。他に八幡宮と白蛇社がある。

石津太神社末社 八幡宮

石津太神社末社 八幡宮



石津太神社末社 白蛇社

石津太神社末社 白蛇社




蛭子の伝承

 鳥居前の紀州街道を隔てた所に石が置かれていて、傍らに「五色の石」と刻んだ石標が立っている。これは蛭子命が携えていたという神石を埋めた場所だとされている。ある時、今北某(大北とも)という村人が神石が本当に埋まっているか確かめるために掘り返そうとしたところ、強烈な光が閃いて両眼を失明したという言い伝えがある。罪を謝すると視力は回復し、その後彼の子孫が代代この神蹟を保護してきたという。

石津太神社 五色の石

石津太神社 五色の石



 石津太神社のおよそ五百メートル西、石津川河口付近には同社の御旅所がある。蛭子命が漂着した「石津の磐山」がここだとされる。柵で囲った中に石が安置されている。

石津太神社御旅所

石津太神社御旅所



石津太神社御旅所

石津太神社御旅所



 毎年十二月十四日に行われる「やっさいほっさい」という祭礼は奇祭として名高い。
 神木を積み上げたとんどに火をつけ、氏子から選ばれたえびす役が三人の年男に担ぎ上げられて、「やっさいほっさい」の掛け声とともに火渡りを行う。これは蛭子命が石津浦に漂着した時、村人が火を焚いてその体を暖めたという故事に基づくという。燃えたとんどが西(海側)に倒れると翌年は豊漁、東に倒れると豊穣とされる。堺市の無形民俗文化財に指定されている。

石津太神社 御朱印

石津太神社 御朱印




参考文献:
◇度会延経『神名帳考証』 松岡雄淵書写(西尾市岩瀬文庫所蔵) 1760
◇栗田寛『神祇志料 巻之十』 温故堂 1886
◇鈴鹿連胤(撰)『神社覈録 上編』 皇典講究所 1902
◇伴信友「神名帳考証」『伴信友全集 第一』 国書刊行会 1907
◇井上正雄『大阪府全志 巻之五』 大阪府全志発行所 1922
◇教部省(撰)『特選神名牒』 磯部甲陽堂 1925
◇太田亮『和泉』(日本国誌資料叢書) 磯部甲陽堂 1925
◇大阪府学務部(編)『大阪府史蹟名勝天然記念物 第四冊』 大阪府学務部 1929
◇蘆田伊人(編)『大日本地誌大系 第十八巻 五畿内志・泉州志』 雄山閣 1929
◇式内社研究会(編)『式内社調査報告 第五巻 京・畿内 5』 皇學館大学出版部 1977
◇永野仁(編)『日本名所風俗図会11 近畿の巻I』 角川書店 1981
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983


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