高龗神社

 和泉葛城山上に鎮座する八大龍王社(高龗たかおかみ神社/葛城神社)についての諸事を記した『葛城峯宝仙山萬覚帳』に、同社の縁起が次のように書かれている。
 ある時、弘法大師と「しるびん大師」が法力対決を行った。しるびん大師が降雨を司る諸龍神を「摩訶」の二字を以て縛ったため、日本中が百日にわたる大旱魃に見舞われた。対する弘法大師は「般若波羅密多」と誦えて海の龍王に祈請した。すると八大龍王が泉州脇浜浦の、今では龍王島と称する所に出現した。弘法大師が龍王を葛城山頂に遷し祀ると、雨が降り始め、無事五穀が実った。
 この縁起にある、最初に龍王が顕現したのが、貝塚市脇浜に鎮座する高龗神社。

高龗神社 鳥居と社号標

高龗神社 鳥居と社号標



高龗神社
【たかおかみじんじゃ】
鎮座地大阪府貝塚市脇浜三丁目近木崎34-1
包括単立
御祭神高龗大神【たかおかみのおおかみ】
事代主命【ことしろぬしのみこと】
創建不詳
延喜式神名帳和泉國日根郡 神前神社
社格等旧村社
別称/旧称八大龍王社 龍王社 龍王宮 脇浜戎大社


高龗神社 拝殿

高龗神社 拝殿



 脇浜高龗神社の鎮座地は、和泉葛城山に源を発する近木こぎ川の河口にあたる。弘法大師の祈りによってこの地に現れた龍王は、近木川を遡って葛城山へと上ったのだろう。
 役行者の祈請で百済から海を渡って津田川河口に現れた神が神於山こうのやまに飛来したという、よく似た話が神於寺こうのでら(岸和田市神於町)の縁起として伝わる。



 埋め立てによって大きく様変わりしているが、葛城山龍王社の縁起に「龍王島」とあるように、往時は細い洲でつながった島の上に社があった。『和泉名所図会』にその頃の様子が描かれている。同書では「竜王宮」とし、「石室の社也」とある。絵に描かれた本殿は石祠のように見える。
 龗神おかみのかみを祀る他の神社と同様、雨乞いの神として尊崇された。日照りが続く時には神社沖の浅瀬に竹を立て、雨乞いの踊りを奉納したという。

高龗神社 拝殿内部

高龗神社 拝殿内部



 高龗神社は明治五年(1872)、近代社格制度の下で村社に列せられている。同四十年(1907)に脇浜字妙見山の村社鹿島神社(稲倉魂命)、脇浜字上坂の無格社大神社(大日孁貴命)、石才字大角の村社市杵島神社(市杵島姫命)を合祀。同四十二年(1909)神饌幣帛料供進社に指定されている。
 一方、高龗神社と同じ脇浜字近木崎に事代主命を祀る事代主神社があった。明治四十年(1907)に畠中字長楽寺の村社神崎(神前)神社(少彦名命)、畠中字新宮の村社八坂神社(須佐之男命)、畠中字河原の村社市杵島神社(市杵島姫命)、畠中字宮の無格社八坂神社(須佐之男命)、神前字妙見山の村社八坂神社(須佐之男命)、加治字宮の村社嘉治穂神社(事代主命)、加治字肥取垣内の無格社出口神社(武甕槌命)を合祀して、事代主神社から戎神社に名を改めている。この戎神社が大正元年(1912)高龗神社に合祀され、高龗神社は北近義村一村の総社となった。
 上記合祀社は『大阪府全志』の記述によるが、境内にある貝塚市教育委員会による案内板では、合祀社は以下となっている。
  • 鹿島神社 八幡神社 大神社 市杵島神社 戎神社(以上脇浜)
  • 市杵島神社(以上石才)
  • 厳島神社 八坂神社 八坂神社 八品神社 菅原神社(以上畠中)
  • 嘉治穂神社 出口神社 鹿志摩神社(以上加冶)
  • 八坂神社 春日神社 神前神社(以上神前)


高龗神社末社 八百萬神社と祖霊社

高龗神社末社 八百萬神社と祖霊社




戎神社

 戎神社の合祀により主祭神は高龗大神と事代主命の二柱となった。現在、神社では高龗神社と脇浜戎大社の二つの社名を並記している。合祀後も「脇浜のえべっさん」の崇敬は篤く、正月の十日戎には多くの参拝客で賑わう。
 合祀された神社のうち、戎神と同一視される事代主命を祀っていた神社は脇浜の戎神社の他に加治村の嘉治穂神社があった。嘉治穂神社は大化元年(645)に戎神の総本社とされる西宮神社から勧請したと伝え、その名は「舵帆」に由来する。御分霊を舟で運ぶ際、嵐に遭い帆を吹き飛ばされてしまった。その時戎神より舵を帆とするよう託宣があり、その通り帆の代わりに舵を立ててみたところ、風雨がおさまり無事に帰り着くことができたのだという。

高龗神社 戎像

高龗神社 戎像



 脇浜は宮中の食事を司る宮内省内膳司の料所である網曳御厨あびこのみくりやが置かれ、塩漬け魚や干し魚、魚の内臓で作った調味料などを奉献していた。御厨の守護神として戎神が祀られたのだろう。

高龗神社 手水舎

高龗神社 手水舎



 社伝によると、持統天皇四年(690)九月二十一日、紀伊国巡見の帰途に天皇が脇浜を訪れ、地曳網漁を視察したという。翌二十二日、現在の高龗神社で倭舞やまとまい(神楽)が奉納され、天皇も立ち会った。以来、九月二十二日は高龗神社の祭日となり、倭舞が代代継承されてきたが、明治時代に途絶えてしまった。今は倭舞に使われた面などが旧家に残されているという。

高龗神社 石祠(祭神不明)

高龗神社 石祠(祭神不明)




神前神社

 式内神前こうざき神社は戎神社(事代主神社)に合祀、さらに戎神社が高龗神社に合祀されており、その痕跡は何も残っていない。
 明治十二年(1879)の神社明細帳によると、氏子は九十三世帯、境内地五百四十二坪、本殿は方一間五寸(およそ百九十七センチメートル)だった。
 鎮座地は旧畠中村字長楽寺山で、現在貝塚市立西小学校の建つ辺りらしい。『和泉志』『和泉名所図会』などは所在地を神前村としているが、それらに先立つ元禄十三年(1700)の『泉州志』には「在神前村 今日在畠中村領」とある。村境の移動があったのだろうか。実際、鎮座地付近は脇浜・畠中・神前・加治四ヶ村の土地が入り組んでいて、境界をめぐってしばしば争いがあったようだ。『特選神名牒』は「明細帳畠中村にありて村社 神前村には此社号の社なし 今按当社畠中村にありと云ひまた神前村にありと云ひて未だ一決せずと云り されど泉州志和泉志共に神前村と記せる由ありげなり 尚よく考べし」とする。
 祭神は不詳だが、江戸時代には「妙見」と称ばれていたことが『泉州志』『和泉志』『和泉名所図会』に見える。神仏分離以前は妙見菩薩を祀っていたのだろうか。
 度会延経『神名帳考証』 は祭神を舩戸神ふなとのかみとする。クナト(フナト)は境界の神で、道の分岐や村境で悪霊・疫病などの侵入を防ぐ役割を持つ。「神前」は「神崎」に通じ、近木川河口付近の海に突き出した土地を指す地名ともいわれるから、海と陸の境界であるそのような場所に境界神を祀ったという解釈だろう。
 一方、『大阪府史蹟名勝天然記念物』は「祭神詳ならず。或は少彦名命すくなひこなのみこととし、或は武甕槌命たけみかづちのみこととす」としている。根拠が明示されていないが、地元にそのような伝承があったのだろうか。

高龗神社/脇浜戎大社 御朱印 「招福笑門」

高龗神社/脇浜戎大社 御朱印 「招福笑門」




参考文献:
◇度会延経『神名帳考証』 松岡雄淵書写(西尾市岩瀬文庫所蔵) 1760
◇鈴鹿連胤(撰)『神社覈録』 皇典講究所 1902
◇伴信友「神名帳考証」『伴信友全集 第一』 国書刊行会 1907
◇井上正雄『大阪府全志 巻之五』 大阪府全志発行所 1922
◇教部省(撰)『特選神名牒』 磯部甲陽堂 1925
◇大阪府学務部(編)『大阪府史蹟名勝天然記念物 第四冊』 大阪府学務部 1929
◇蘆田伊人(編)『大日本地誌大系 第十八巻 五畿内志・泉州志』 雄山閣 1929
◇石貝庄左衛門「葛城峯宝仙山萬覚帳」『和泉志 第44・45・46・47合併号』 和泉文化研究会 1971
◇式内社研究会(編)『式内社調査報告 第五巻 京・畿内 5』 皇學館大学出版部 1977
◇永野仁(編)『日本名所風俗図会11 近畿の巻I』 角川書店 1981
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983


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