創祀の伝承

 大和国葛下郡下田村(現奈良県香芝市)は古くから交通の要衝として栄えた。河内から国分峠を越え初瀬(長谷)を経て伊勢へ到る伊勢街道と、王寺から南に延びる當麻寺たいまでら参詣道が下田の地で交わる。現代においても、国道一六五号線と一六八号線の交差点として交通量の多い場所だ。その下田交差点に鎮座するのが、平安末期の勧請伝承を持つ鹿島神社。

鹿島神社 鳥居

鹿島神社 鳥居



鹿島神社
【かしまじんじゃ】
鎮座地奈良県香芝市下田西一丁目鹿島9-3
包括神社本庁
御祭神武甕槌命【たけみかづちのみこと】
創建承安二年(AD1172)
創祀鎌田政光
延喜式神名帳大和國葛下郡 深溝神社
社格等旧村社
別称/旧称鹿嶋神社 森の宮


 河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。
 平治の乱で平清盛に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく、政清ら一党を伴い東国へ向かった。道中落武者狩りに遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
 忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
 父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は辛くも難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現れてこう告げた。
庚子かのえねの年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
 政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。
 長い年月が過ぎた。時に承安二年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
 政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主として長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、源氏の世が到来する。



鹿島神社

鹿島神社



 このように承安二年(1172)の創祀を伝える鹿島神社だが、『大乗院寺社雑事記』には久安年間(1145~1151)平田荘内に鹿島社領があったことが記されており、これが下田鹿島神社を指すとすれば創建時期は早まることになる。
 実は鎌田政光の名は鹿島神社の縁起以外には見えないのだが、『源平盛衰記』には鎌田政清の子として鎌田「光政」が登場する。兄盛政とともに源義経四天王のひとりとして活躍し、元暦二年(1185)屋島の戦いで討死している。

 葛城市當麻の當麻北共同墓地に平安後期とみられる古式の五輪塔がある。奈良県最古の石造五輪塔で、国の重要文化財に指定されている。墓地の総供養塔として建てられたものとされるが、一説に鎌田政光の墓、もしくは平治の乱で死んだ鎌田一族の供養塔ともいう。

當麻北墓五輪塔

當麻北墓五輪塔




式内論社としての鹿島神社

 鹿島神社を式内深溝神社に比定する説がある。
 鬱蒼とした森に覆われた「森の宮」と称される社域が条里制における一坪をほぼ占めていること、周辺の式内社との距離がおよそ半里と式内社の分布原則に合致していること、更に、下田の東西を流れる鳥居川と葛下川本流がいずれも川底が低く(その為この辺りでは堤防が見られない)、「深溝」の名に相応しいことがその根拠となっている。
 これは昭和になって志賀剛氏が提唱したもので、明治・大正時代の史料には勿論その記述はなく、明治二十四年(1891)の神社明細帳には「式外」とはっきり記されている。また、境内に「式内社」「深溝神社」の表示は見られず、この説を積極的に採用していないようにも思える。
 鹿島神社の当初の鎮座地は現在地南西の字宮中で、のち、深溝神社があった現在地に遷座したとの説もある。
 なお、鹿島神社の三キロメートルほど北にある貴舟神社(北葛城郡上牧町上牧)も深溝神社の論社となっているが、どちらの説も決め手に欠け、深溝神社の所在は不明とするのが妥当に思われる。

鹿島神社 拝殿

鹿島神社 拝殿




八百年受け継がれる伝統

 鹿島神社には結鎮座けいちんざと称する宮座があり、座の組織や祭礼の内容等を記録した四十六点の文書からなる『鹿島神社結鎮座文書』が伝わる。宮座の記録としては最も古い。
「座衆経営録」は文安元年(1444)に書かれたもので、法楽寺鎮守三十八社宮の座衆(下田方)と鹿島神社の祭礼奉行(鹿島方)を合体して一座とし、現在まで続く結鎮座が構成されたこと等が記されている。法楽寺は鹿島神社の神宮寺のような位置付けにあったと考えられる。大日如来像を安置する堂が鹿島神社の北東四百メートルに現存する。
「座衆帳」は座衆の家名、先代と子孫の名を記録したもので、建久七年(1196)から慶応二年(1866)まで途切れることなく書き継がれている。慶応以降も「寶壽順位名鑑」「入衆順位名鑑」として現在まで継承されている。
 結鎮座の座衆には上十人衆・下十人衆・三十人衆・平座衆といった階梯があり、入衆録に記入された順にその地位が決まるため、座衆の家に長男が生まれると一刻を争って届け出るという。運営は上十人衆の一老と称する最年長者を中心に行われる。
 毎年一月二十六日に行われる渡御行事は、上十人衆が輪番する頭屋宅に神霊を迎える行事。往時と比べると規模は縮小されているが、古式をよく留めており、中世に成立した宮座の祭礼が現在に至るまで受け継がれている貴重な例。

鹿島神社 拝殿

鹿島神社 拝殿




香芝市の市名由来

 香芝という地名は古いものではない。昭和三十一年(1956)に下田村・五位堂村・二上村・志都美村の四村が合併して香芝町となった際に初めて町名として採用されたもの。その直接の由来は同二十四年(1949)に開校した四村および加守村の組合立香芝中学校。同校所在地の小字名は「香の池尻」だが、別に周辺を指して「コウノシバ」という俗称があり、これに「香ノ芝」の字を当てて校名とした。「コウノシバ」の他に「カマシバ」の称もあり、鹿島神社の鎮座する字「鹿島」との間に字「鹿島前」があることから、「カシママエ」が音節の転倒によって「カマシマエ」となり、それが「カマシバ」、さらに「コウノシバ」に転訛したと考えられている。つまり、間接的に鹿島神社が香芝市の名の由来となったということになる。

鹿島神社 御朱印

鹿島神社 御朱印




参考文献:
◇『大和国葛下郡神社明細帳』 奈良県立図書情報館所蔵 1879
◇『葛下郡神社明細帳』 奈良県立図書情報館所蔵 1891
◇下田村『史蹟名勝天然紀念物調査書』 奈良県立図書情報館所蔵 1923
◇池田末則/横田健一(編)『日本歴史地名大系30 奈良県の地名』 平凡社 1981
◇式内社研究会(編)『式内社調査報告 第二巻 京・畿内 2』 皇學館大学出版部 1982
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典29 奈良県』 角川書店 1990


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鹿島神宮
鹿島神宮

東 実

學生社
2000-08

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