大津大神宮
【おおつだいじんぐう】
鎮座地滋賀県大津市小関町3-26
包括神社本庁
御祭神天照皇大神【あまてらすすめおおかみ】
豊受大神【とようけのおおかみ】
創建明治十一年(AD1878)
別称/旧称神宮奉斎会滋賀県地方本部


大津大神宮

大津大神宮



神宮教会

 大津大神宮は滋賀県神社庁に隣接して鎮座している。伊勢両宮の神、即ち伊勢神宮内宮の天照皇大神と外宮の豊受大神を祀る。創建は明治十一年(1878)と比較的新しい神社だ。
 この神社について語るためには、近代神社政策の歴史に触れないわけにはいかない。





 明治五年(1872)、政府は神道を軸とした国民教化を目的として教部省を新たに設置、教導職制度を設けて神官・僧侶らをこれに任命した。そして教導職の中央統括機関として大教院を設立、その下部組織として府県単位で統括する中教院、さらに各地の社寺に小教院を置き、教導職は「三条の教則」(敬神愛国・天理人道・皇上奉戴朝旨遵守)に基づいて説教を行った。これは神仏合同の名の下に行われ、教導職は自らの属する宗旨の教義を説くのではなく、あくまでも尊皇愛国思想を定着させるべく活動するという名目だった。

 同年、伊勢神宮は伊勢信仰の布教を行う神宮教会を設立、またその中枢機関として神宮教院を設けた。全国各地で既存の伊勢講を基盤として講社が再編され、神宮教会の傘下となった。

 大教院は神仏合同の布教機関と位置づけられ、神仏分離政策による廃仏の気運に喘いでいた仏教諸宗にとっては地位回復の面もあったが、実態としては神道側の完全な主導の下にあり、内部での対立は避けられなかった。さらに様ざまな外的要因も重なり、期待された実績を残せないまま明治八年(1875)五月に大教院は解散し、神道と仏教は分かれて布教を行うこととなった。
 神道系の教会・講社は新たに創設された神道事務局の下で教導職活動を継続したが、同年十一月に「信教自由」を保障する口達が出されると、各自の教義による教導が認められることとなる。翌九年(1876)に神道黒住派(のちの黒住教)と神道修成派が神道事務局からの独立を認められ、いわゆる教派神道の魁となった。

 このような動きの中、神宮教会は全国の教区ごとに本部教会・支部教会を置き、教導活動を推進していく。
 明治十一年(1878)十月二十日、伊勢神宮祭主であった久邇宮朝彦くにのみやあさひこ親王の令旨により、大津下栄町に神宮教会大津支部として社殿が建てられ、伊勢内宮より天照皇大神を分霊した。これが大津大神宮の創祀である。

大津大神宮 拝殿

大津大神宮 拝殿



神宮教

 明治十五年(1882)神官と教導職の分離を定める法令が出され、神官が布教や葬儀に関わることが禁じられた。
 この背景には「神社は宗教にあらず」とする神社非宗教論がある。明治政府の根本理念である祭政一致(祭祀と政治の一体化)と、近代国家として国際的に認められるために必須の政教分離(政治と宗教の分離)とを並立させるためには「祭教分離」、即ち祭祀と宗教を分ける以外に道を見出すことはできなかったのだ。この苦肉の策を強行することで、神社神道は宗教ではなく「国家の宗祀」であると位置づけられた。「国家神道」の誕生である。

 神社の宗教活動が禁止されたことに伴い、神社に付属する教会・講社は、消滅するか、宗教団体として神社から独立するかの選択を迫られる。明治十五年(1882)五月、神宮教院は神宮司庁と分離し、神道神宮派として神道事務局から分派特立した。この時に神道大社派(出雲大社教)・神道扶桑派(扶桑教)・神道実行派(実行教)・神道大成派(神道大成教)・神道神習派(神習教)も独立している。さらに九月には御嶽教会が神道大成派を離脱、神道御嶽派(御嶽教)となった。そして十一月、神道修成派を除く八派が「派」名を「教」名に改める。神道神宮派も神宮教と改称した。
 神官教導職分離の後も教導職制度はしばらく存続したが、明治十七年(1884)に廃止される。明治十九年(1886)神道事務局は神道本局として再編、「神道」の名で独立教派となる。これがのちの神道大教である。さらに同二十七年(1894)以降、神理教・禊教・金光教・天理教が分派している。これにより、明治九年(1876)独立の黒住教・神道修成派を合わせて十四派の教派神道が出揃う。


神宮奉斎会

 明治三十一年(1898)十月二十日、神宮教が祭神に豊受大神を加えたのに伴い、大津教会にも同神が合祀されるとともに、大津市甚七町に社殿を新造し移転している。
 この頃、神宮教は岐路に立っていた。伊勢神宮という国家祭祀の中枢を奉戴し、なおかつ国家事業である神宮大麻頒布を担う立場にありながら、一宗教団体に過ぎないという矛盾を帯びた地位にあることへの内外からの批判が高まっていたのである。折しも国家神道の確立とともに政府による宗教統制は厳しさを増しつつあり、宗教団体にとって先行きは決して明るいものではなかった。こうした中で、明治三十二年(1899)神宮教は解散し財団法人神宮奉斎会へと改組、宗教ではなく崇敬団体となった。
 大津教会は神宮奉斎会大津支部となり、その後昭和四年(1929)に社殿を現在地に移築、遷座した。

大津大神宮 神馬舎

大津大神宮 神馬舎



神社本庁

 太平洋戦争後の昭和二十年(1945)十一月、大津大神宮は神宮奉斎会滋賀地方本部となっている。
 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令により国家神道は否定され、神社界は体制転換を余儀なくされた。新組織構築のため神宮奉斎会は他団体と協議を重ねた。こうして昭和二十一年(1946)、大日本神祇会・皇典講究所・神宮奉斎会が母体となり、宗教法人神社本庁が創立される。
 同年八月、神社本庁の被包括団体として宗教法人大津大神宮を設立。同二十三年(1948)滋賀県神社庁が大津大神宮内に移転し、以後滋賀県神社庁が神社を管理する。同四十七年(1972)には宗教法人大津大神宮を宗教法人滋賀県神社庁に統合し、現在に至る。

大津大神宮 御朱印

大津大神宮 御朱印




参考文献:
◇岡田荘司(編)『日本神道史』 吉川弘文館 2010
◇井上寛司『「神道」の虚像と実像』 講談社現代新書 2011


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