◆忠岡神社 鳥居と社号標
忠岡神社 鳥居と社号標

忠岡の総鎮守

 泉大津市と岸和田市に挟まれ細長い形をした忠岡町は、日本で最も面積の小さい町。かつては同じ大阪府の田尻町の方が小さかったが、関西国際空港建設による埋め立てで面積が増え、さらに愛知県の春日町が清須市と合併して消滅したため、平成二十一年(2009)十月に日本一となった。
 忠岡神社は忠岡町内で宗教法人として登録されている唯一の神社だ。

◆忠岡神社 拝殿
忠岡神社 拝殿

忠岡神社
【ただおかじんじゃ】


鎮座地: 大阪府泉北郡忠岡町忠岡中一丁目(道村)26-3

包括: 神社本庁

御祭神:
菅原道真公【すがわらのみちざねこう】
素盞嗚命【すさのおのみこと】
狭依毘賣命【さよりびめのみこと】
武甕槌命【たけみかづちのみこと】
経津主命【ふつぬしのみこと】
比咩大神【ひめおおかみ】
天兒屋根命【あめのこやねのみこと】
栲幡千千姫命【たくはたちぢひめのみこと】
天御中主命【あめのみなかぬしのみこと】

創建: 不詳

社格等: 旧村社

別称/旧称: 天神社 菅原神社

◆忠岡神社 神牛像
忠岡神社 神牛像

 忠岡神社は旧忠岡村字道村に鎮座し、江戸時代までは天神社と称した。
 明治五年(1872)に菅原神社として村社に列す。
 明治四十二年(1909)に旧忠岡村字南戸の村社八坂神社(牛頭天王社)より素盞嗚命、同字弁天の村社厳島神社(弁財天社)より狭依毘賣命、同字春日の村社春日神社(春日大明神社)より春日四神と栲幡千千姫命、旧下馬瀬村字宮の前の村社馬瀬神社(天一神社)より天御中主命を本殿に相殿合祀。また旧忠岡村字戎山の無格社事代主神社(戎神社)より事代主命を末社として境内に迎えた。その翌年に現社名に改称。

◆忠岡神社末社 忠岡戎神社
忠岡神社末社 忠岡戎神社

忠岡の地名由来

 寿永二年(1183)平氏一門は木曾義仲に大敗を喫し、幼い安徳天皇を奉じて西国へと都落ちする。
 平清盛の末弟(異母弟)で文武に誉れの高かった平忠度はこの時、再起を期すべくその子忠行とともに生まれ故郷の紀州熊野を目指した。
 紀州街道を南下し泉州大津まで来た時、義仲四天王の一角今井兼平の子である兼滋率いる追っ手が背後に迫る。
 父忠度を先に進ませた忠行は、大津川南岸の土手に陣取り、民家の戸板を楯代わりに並べて兼滋を迎え撃つ。忠行は奮戦するも深手を負い、忠岡神社の鎮座地付近で十八歳の命を散らした。
 村人たちは哀れみ、小高くなった場所に忠行を葬り菩提を弔った。これが「忠行の丘」と称ばれるようになり、いつしか約まって「忠岡」となったという。
 また戸板の楯を並べた故事から、紀州街道に架かる橋は「楯並橋」と名づけられている。

◆忠岡神社 神木「みいさん」
忠岡神社 神木「みいさん」

 さて、どうもこの伝承はそれほど古いものではないようだ。近代に入ってから広まったと思われる。
 平忠度は寿永三年(1184)に一ノ谷の戦いで討死しており、都落ちの際も一門と同行していたものと見られるから、熊野へ向かったというのは史実ではなかろう。従って泉州にいる筈がない。
 
◆忠岡神社 神木「おふくさん」
忠岡神社 神木「おふくさん」

 この話には後日譚ともいうべきものがあり(というよりこちらの伝承がおそらく先にあったのだろう)、忠行を敗死させた今井兼滋はのちにこの地に棲み着いたと伝わる。
 平家を都から逐った翌年、木曾義仲は源頼朝軍によって討たれ、兼滋の父兼平も凄絶な最期を遂げた。
 兼慈は近江伊吹山中に潜伏後諸国を流れ、建久九年(1198)忠岡の地に辿り着いてここで余生を過ごした。
 子孫は安明氏を名乗り、忠岡を含む宇多荘の荘官を務めたと伝わる。九代目の兼孝は楠木正成に従って千早城の籠城戦に参加した。正成の死後は剃髪して寺院(忠岡南の永福寺)を建立し、その菩提を弔ったという。
 伝説に過ぎないかもしれないが、なぜ兼滋は忠岡に留まったのだろう。忠行の供養のためだったろうか。

◆忠岡神社 御朱印
忠岡神社 御朱印


参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之五』 大阪府全志発行所 1922
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983


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源平合戦の虚像を剥ぐ
屍を乗り越え進む坂東武者と文弱の平家公達――。我々がイメージする源平の角逐は、どこまで真実だったのか? 「平家物語史観」に基づく通説に対し、テクストの精緻な読みと実証的な探究によって、鋭く修正をせまる。さらに、源平合戦の実像や中世民衆の動向、内乱の歴史的所産としての鎌倉幕府の成立過程までを鮮やかに解明した、中世史研究の名品。
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