要塞都市

 戦国期に貝塚御坊こと金凉山真教院願泉寺を中心とする環濠都市として発展した貝塚寺内町。西に大阪湾を臨み、南北を北境川・清水川に挟まれ、東側には二つの川をつないだ濠を設け、土塁を三方に築いて防備を固めた南北約八百メートル、東西約五百五十メートルの要塞である。
 その中央を貫く中之町通り沿い、寺内町の南東の突端にあたる場所に感田神社が鎮座する。

感田神社 鳥居

感田神社 鳥居



感田神社
【かんだじんじゃ】
鎮座地大阪府貝塚市中905
包括神社本庁
御祭神天照皇大神【あまてらすすめおおかみ】
須左之男大神【すさのおのおおかみ】
菅原道真公【すがわらのみちざねこう】
創建不詳
社格等旧郷社
別称/旧称貝塚宮 神田明神 神田河原大明神 神田瓦大明神 感田瓦大明神


 創祀の時期は不明だが、寺内町の建設が本格化するのが天文二十四年(1555)頃であるから、その頃と考えるのが妥当だろう。伝承によれば、隣接する海塚村の牛頭天王社と堀村の天満宮より分霊を勧請し、天照皇大神を中心に三神を祀り土地の名を採って神田河原明神と称したのが起源という。新しい町を造るにあたり両村から移住する者が多かったのだろう。この二社は『大阪府全志』にある海塚村字宮山の海門神社(須佐之男命)と堀村字天神の菅原神社(菅原道真)であろうと推測するが、どちらも明治期に阿理莫神社に合祀されており現存しない。

感田神社 楼門

感田神社 楼門



 織田信長が台頭してくると、貝塚寺内町は信長包囲網の一角を担う本願寺や紀伊雑賀衆ら一揆勢の拠点となった。そして天正五年(1577)、信長軍の攻撃によって町は焦土となり、神田河原明神も荒廃した。
 天正八年(1580)信長との講和が成立し、本願寺法主顕如は大坂石山本願寺から紀伊鷺森へ退去した。壊滅した貝塚の町は貝塚御坊の卜半斎了珍の下、復興へと歩を進めていった。
 顕如が鷺森から貝塚へ移って来たのは信長の死の翌年、天正十一年(1583)七月のことだった。それから二年余り、顕如が大坂天満本願寺へ移るまでの間、貝塚御坊は本願寺となり貝塚寺内町が本願寺教団の本拠であった。門徒たちで大いに賑わったであろうことが想像される。


再興と再編

 天正の兵火によって衰亡した神田河原明神の社地にはいつしか宗福寺という寺院が建ち、天台宗の秀山なる僧侶が住持となっていた。
 慶安元年(1648)、宗福寺二世の円海が町衆の願いに応え、神田河原明神の社殿を陶器を用いて再建した。以来、「河原」を「瓦」と改めて神田瓦明神と称するようになる。宗福寺が別当寺となり、代代の住持が社僧として祭祀を執りおこなった。
 その後、岸和田藩主が瓦明神に格別の神徳を感じたことから「神田」を改め「感田」の名を賜ったという。
 明和三年(1766)には吉田家(吉田神道宗家)より大明神号を授けられる。

感田神社 拝殿

感田神社 拝殿



 明治になり、神仏判然令が発せられて神仏分離が進められていく。感田神社を管理していた宗福寺は明治三年(1870)に廃寺となり、新たに神職が置かれた。
 明治五年(1872)感田神社は郷社に列し、同四十年(1907)には神饌幣帛料供進社に指定される。


末社巡拝

 寺内町の端に突き出すように建っていた感田神社は、表参道側を除く三方を濠に囲まれていた。社務所前に濠の一部が残り、趣ある景観を作っている。

感田神社 環濠跡

感田神社 環濠跡



 一之社から七之社の末社がある。社名と祭神は次の通り。

一之社
  • 八品神社
    • 天櫛玉命あめのくしたまのみこと
  • 琴平神社
    • 大物主命おおものぬしのみこと
    • 崇徳天皇すとくてんのう
  • 淡島神社
    • 少彦名命すくなひこなのみこと
    • 大巳貴命おおなむちのみこと
    • 息長足姫命おきながたらしひめのみこと

感田神社末社 一之社

感田神社末社 一之社



二之社
  • 潜戸神社
    • 𧏛貝比売神きさがいひめのかみ
    • 須世理毘売神すせりびめのかみ
    • 大国主神おおくにぬしのかみ
    • 倉稲魂神うかのみたまのかみ

感田神社末社 二之社

感田神社末社 二之社



三之社
  • 神明神社
    • 天照皇大神あまてらすすめおおかみ
    • 豊宇気姫神とようけひめのかみ

四之社
  • 住吉神社
    • 底筒男命そこつつおのみこと
    • 中筒男命なかつつおのみこと
    • 表筒男命うわつつおのみこと
    • 息長帯姫命おきながたらしひめのみこと

五之社
  • 春日神社
    • 建御賀豆智命たけみかづちのみこと
    • 伊波比主命いわいぬしのみこと
    • 天之子八根命あめのこやねのみこと
    • 比咩神ひめのかみ

感田神社末社 三之社 四之社 五之社

感田神社末社 三之社 四之社 五之社



六之社
  • 初姫稲荷神社
    • 倉稲魂命うかのみたまのみこと語句かな
    • 大宮女命おおみやめのみこと
    • 猿田彦命さるたひこのみこと

感田神社末社 六之社

感田神社末社 六之社



七之社
  • 海幸戎神社
    • 事代主神ことしろぬしのかみ

 七之社は明治十三年(1880)に漁民によって創建された北之町字荒子の無格社海幸神社を明治四十年(1907)に合祀したもの。

感田神社末社 七之社

感田神社末社 七之社



感田神社 御朱印

感田神社 御朱印



 御朱印を拝受。天照大神を表す菊花紋にスサノオの神紋である木瓜紋、道真の梅鉢紋があしらわれている。


参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之五』 大阪府全志発行所 1922
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇貝塚市教育委員会(編)『絵図に見る貝塚寺内のうつりかわり』 2005


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