河内西国屈指の美仏

 天野山を発して北へ流れる西除川は、大和川と合流する手前付近を特に布忍川(布瀬川)とも称ぶ。その布忍川の東の畔、かつての丹北郡向井村に小さな寺院がある。河内西国第五番札所の布忍山大林寺だ。

◆大林寺 山門
大林寺 山門

河内西国巡礼 第五番
布忍山大林寺
【ふにんざんだいりんじ】


所在地: 大阪府松原市北新町一丁目10-5

宗派: 融通念佛宗

御本尊:
阿弥陀如来
十一面観世音菩薩[札所御本尊]

創建: 明治十一年(AD1878)

御詠歌: のちのよをみちびきたまうみてのいとぬのせのてらへまいりむすばん

法語: 念彼観音力


 明治初年に廃寺となった融通念佛宗念仏寺の跡地に、八上郡大饗村(現堺市美原区大饗)にあったがやはり廃寺となっていた大林寺の寺籍を譲り受けて新たにこの寺が建立されたのは明治十一年(1878)のこと。
 布忍川を挟んだ対岸には布忍神社がある。かつてその布忍神社を鎮守社とする布忍山永興寺という大寺があった。永興寺は明治六年(1873)に廃寺となり、肉筆の大般若経六百巻や木版刷りの『布忍山永興寺略縁起』などとともに本尊十一面観音立像も大林寺に移された。河内西国巡礼の札所本尊となっているのはその観音像だ。

◆大林寺 本堂
大林寺 本堂

 本堂に上げていただく。
 中央に本尊の阿弥陀三尊、脇に不動明王と弘法大師、そして永興寺の本尊であった十一面観音。
 十一面観音は像高およそ百七十センチメートル、檜の一木造。左手に水瓶を掲げ、右手は下に垂らす。右足が少し前に出ていて、左足は僅かに膝を曲げて踏み出そうとしているように見える。丸い顔は穏やかな表情を浮かべ、肩の線もなだらかで全体に柔和な雰囲気。平安時代後期の作とみられ、頭上の十一面と両手先・両足先は後補だが、それ以外の大部分は当初の像容をよく残しているとのこと。
 仏像というのは手が異様に長かったり、頭が大きかったり、しばしば人間離れした誇張表現をされることがあるが、この観音像は顔つきが優しく、均整の取れたプロポーションでバランスがよくて、いい意味で癖がない。
 大伽藍を誇ったという永興寺の本尊に相応しい、美しい像だと感じた。

幻の大伽藍

 大林寺に伝わる『布忍山永興寺略縁起』によると、永興寺は寛治三年(1089)永興律師により創建された。当初は布忍寺と称し、七堂伽藍を備えた大寺だったと伝える。のち衰微するが、弘安年間(1278~1288)に興正菩薩叡尊が中興。しかし再興された堂宇も明徳二年(1391)ならびに天正年間(1573~1592)の兵火で荒廃した。
 永興寺の子院だったと伝わる東之坊(現布忍寺)の『布忍山東坊縁起』では永興律師以前の寺史として聖徳太子開基と弘法大師再興を記すが、昭和五十四年(1979)の調査で出土した瓦から寛治三年(1089)創建は妥当と判断できるという(発掘された八葉蓮華紋の瓦は大林寺修復の際に再現され、山門・本堂の軒丸瓦に使われている)。
 しかし近世以前の永興寺(布忍寺)がどれだけの規模だったのかは不詳というほかない。はっきりとした記録が残っているのは江戸時代以降のみだ。
 延宝七年(1679)刊の『河内鑑名所記』は向井村布忍山永興寺の本尊として行基作と伝える十一面観音のことを記し、布忍神社の南西に永興寺本堂(観音堂)を描いている。
 その後、元禄三年(1690)中興第一世広山観心和尚のとき、大坂安堂寺町の小川屋孫右衛門の寄進により本堂が再建されている。宝永元年(1704)の布忍神社絵馬には本堂のほか三重塔と鐘楼らしきものも描かれている。この頃に寺観がある程度整えられたとみえる。元文二年(1737)成立の『布忍山永興寺略縁起』には「先師広山比丘此霊場なるを聞て錫を此地に留め給ひ、一宇の堂を再興し彼大士の尊像を安置し奉り、次で宝蔵・客殿・方丈・僧坊・食堂・鐘楼・浴室・門等を建立し給ひて」とある。
 なお、元禄の本堂は明治六年(1873)の廃寺まで存続し、明治二十年(1887)に大県郡法善寺村(現柏原市法善寺)の壺井寺(河内西国第七番)に移築され現存している。

◆大林寺 大聖歓喜天堂
大林寺 大聖歓喜天堂


髑髏の舌

 永興律師が熊野に庵を結んでいた時、随身の比丘が一人いた。比丘は常に一心に法華経を読誦していたが、ある時律師に暇を願い出た。済度利生のため諸国行脚を思い立ったと言う。律師は許し、送り出した。
 それから二年余りが過ぎた頃のこと、杣人(きこり)が律師の庵を訪れた。熊野の山中深くで不思議な誦経の声を聞いたのだと言う。
 律師がその場所に向かうと確かに法華経が聞こえる。声の元を辿ると、そこには白骨化した遺骸があった。傍らに法華経一巻と水瓶がある。それは別れた比丘が常に身につけていた物に相違なかった。師は悲しみの涙に濡れた目で変わり果てた弟子を見ると、髑髏の顎がかたかたと微かに震えている。口の中を覗きこむとその舌は腐ることなく残っていて、生者のそれのように生き生きと動き、経を誦え続けていたのだった。都合三年もの間、誦経の声は絶えなかったという。
 ある日、律師が修法中に不覚にも微睡んだ時、死んだ弟子が夢に現れこう告げた。
「私は法華一万部読誦の誓願を立てましたが望みを果たさぬまま死に至りました。しかし死後も誦すること三年、ついに願望成就いたしました。願わくは我が骨を故郷の河内羽喰庄に移し一宇の堂を建てていただきとうございます」
 律師は遺骨を携え、寺院建立に相応しい土地を探して羽喰庄を歩き回っていると、白布を顔に垂らした童子が忽然と現れた。
「ここに伽藍を建てて我が像を造り安置せよ」
 そう言うと童子は消えた。律師は童子が観音菩薩の化現した姿であると悟った。
 律師は帝に奏上し、寺院造立の許しを得た。弟子の遺骨を埋め、その上に金堂を建てて観音像を安置した。西に五重塔、東には薬師堂を構え、北に牛頭天王を祀る社(布忍神社)を建てた。そして観音の化身である童子が顔を布で隠して人目を忍んでいたことから「布忍寺」と名づけた。

 これが『布忍山永興寺略縁起』に記された布忍寺(永興寺)草創の物語だ。
 この『略縁起』は元よりあった「本縁起」から抜粋して元文二年(1737)に木版刷りとして新たに作られたものだという。向井村庄屋の寺内安林がこの縁起譚を謡曲『布忍山』に仕立て、元禄十六年(1703)に大坂心斎橋で出版されている。農閑期に村民が大坂や堺でこの物語を芝居興行していたとも聞く。元禄三年(1690)の永興寺再興後、これら縁起や謡曲を用いて勧進を積極的に行い、運営資金を集めていたことが想像される。
 ところで『略縁起』では創建を寛治三年(1089)としているが、実在の永興は奈良時代に東大寺第四世別当を務めた人物で、三百年以上の時代の開きがある。
 縁起の骨子である、永興のもとにいた法華持経者が死後も誦経し続けたという話は、ほぼそのまま『日本霊異記』に載っている。下巻第一「法花経を憶持する者の舌曝りたる髑髏の中に著きて朽ちざる縁」がそれだ。
 おそらく、寛治三年(1089)創建という伝は古くからあって、そこに永興寺という寺号から『霊異記』の永興の物語を結びつけて新たな縁起が作られたのだろう。

◆大林寺 御朱印 「大悲殿」
大林寺 御朱印


参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇三田浄久(著)/三田章(編)『河内鑑名所記』 上方藝文叢書刊行会 1980
◇松原市史編さん室『河内国布忍寺(永興寺)の調査研究』 松原市役所 1983
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇出雲路修(校注)『日本霊異記』 岩波書店 1996
◇『やすらぎの古里 河内西国巡礼 こころの散策ガイド』 河内西国霊場会 2003


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