天翔る駿馬と五色の瑞光

 聖徳太子の愛馬黒駒は空を翔ることができたという。
 推古天皇六年(598)九月、太子二十七歳の時、初めて黒駒に乗ることとなった。これは同年四月に諸国より献上された馬の中から太子自身が選び、自邸で調教してきた甲斐産の駿馬だった。
 そのつややかな漆黒の背に太子が跨がると、黒駒は雪のように白い四脚で大地を蹴り、一気に空へと舞い上がる。
 太子はそのまま各地を巡り、三日後に帰還した。
 この途次、富士の山頂で蹄を休め、四方を見渡した太子は、西の方角に天を射す五色の光を見とめる。光が放たれている山の頂まで黒駒を駆った太子。そこは異相の地だった。生い繁る草木は常に見るものとは違い、この世のものでないような美しい鳥がさえずっている。
 五色の光は地中から天に向かって真っ直ぐにのびている。瑞光を発しているのは、仏が埋めた地水火風空の五大の種字だった。
 のちに五字ヶ峯と称ばれることになるこの地を太子は気に入り、自らの墓所にせんと心に決めた。

叡福寺 南大門

叡福寺 南大門



聖徳太子の御廟寺

 推古天皇二十六年(618)太子自らの監督の下、五字ヶ峯の麓に墓所が築かれた。
 推古天皇二十九年(621)太子の母で用明天皇皇后の穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこが没すると、亡骸はこの墓所に葬られた。そして翌三十年(622)二月、太子の妃膳部菩岐岐美郎女かしわでのほききみのいらつめと太子が相次いで病死、同所に追葬されたと伝わる。
「三骨一廟」と称されるこの磯長墓しながのはかは直径五十メートル余の円墳で、横穴式石室の内部に三基の棺が安置されているという。奥に穴穂部間人皇女、手前向かって右に聖徳太子、左に膳部菩岐岐美郎女が葬られている。
 太子の伯母である推古天皇は十舎の僧坊を造営し、御廟所の守護をさせた。それが聖徳太子御廟の香華寺である叡福寺の始まりと伝えられている。

河内西国巡礼 第六番
磯長山聖霊院叡福寺
【しながさんしょうりょういんえいふくじ】
所在地大阪府南河内郡太子町太子上城2146
宗派太子宗(単立)
御本尊聖如意輪観世音菩薩
創建 推古天皇三十年(AD622)
開基推古天皇
寺格等河内三太子
別称/旧称上之太子 太子寺 御廟寺 転法輪寺 普門寺 磯長寺 石川寺
納経題字上之太子


叡福寺 金堂

叡福寺 金堂



 聖徳太子が没してからおよそ百年後の神亀元年(724)、聖武天皇により東西両院の伽藍が整備され、東院を転法輪寺、西院を叡福寺と号したと叡福寺の寺伝にいう。
 しかし、転法輪寺は現存せず、また遺構も確認されていない。どうもこの東西両院説は近代の粉飾とするのが有力で、実際には「転法輪寺」は叡福寺の別称であったとみられる。

叡福寺 多宝塔

叡福寺 多宝塔



 平安時代以降、叡福寺は聖徳太子御廟所として重んじられ、多くの権力者の庇護を受けた。承和二年(835)の嵯峨天皇の行幸以来、宇多天皇まで代代の天皇が行幸したほか、崇徳天皇や亀山天皇は荘園を寄進している。平清盛は高倉天皇の勅を奉じ、息子重盛を檀越として堂塔の修復を行った。江戸時代には中御門天皇以後孝明天皇まで勅使が代参している。
 日本仏教の祖といわれる聖徳太子は、新仏教を開いた名だたる仏教者らの尊崇も受けた。真言宗の開祖空海をはじめ、融通念佛宗の良忍、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮、時宗の一遍らが叡福寺に参籠している。また真言律宗の宗祖叡尊は叡福寺で授戒を行っている。
 庶民の信仰も大いに集めた。叡福寺は「上之太子」として「中之太子」野中寺・「下之太子」大聖勝軍寺とともに河内三太子と称され、四天王寺と合わせて参詣する巡礼が盛んに行われた。

叡福寺 見真大師堂

叡福寺 見真大師堂 親鸞聖人坐像を安置する



 西国三十三所巡礼が庶民の間に広まると、叡福寺にもそれに関わる伝承が生まれた。西国巡礼中興の祖といわれる花山法皇を巡礼に導いた佛眼上人は叡福寺の僧であったとされる。



伽藍再興

 天正二年(1574)叡福寺は織田信長による兵火で全焼。現在の堂宇の多くは江戸時代以降のもの。
 後鳥羽天皇奉納の聖徳太子十六歳孝養像を安置する聖霊殿(太子堂)は、慶長八年(1603)後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が再建。

叡福寺 聖霊殿

叡福寺 聖霊殿



 多宝塔は承応元年(1652)の再建。東面に釈迦・文殊・普賢の三尊像、西面に金剛界大日如来を安置し、四本の柱には四天王が描かれている。
 太子廟の西にある上の御堂と廟前面の二天門は元禄元年(1688)丹南藩主高木正陳が寄進したもの。上の御堂本尊は聖徳太子摂政像。

叡福寺 上の御堂

叡福寺 上の御堂



 金堂は享保十七年(1732)の再建。本尊聖如意輪観音は鞍作鳥くらつくりのとりの作と伝え、胎内に聖徳太子作といわれる観音像を蔵す。脇侍の不動明王と愛染明王は空海の作とされる。

叡福寺 二天門

叡福寺 二天門



太子廟と五字ヶ峯

 石段を上り二天門をくぐると、そこは聖徳太子の御廟所。玉垣に囲われ、宮内庁による制札が立っている。
 江戸時代までは石室内に入ることができたというが、明治十二年(1889)に修復が行われたのち、横穴入口はコンクリートで塞がれた。
 御廟は何度か盗掘の被害に遭っている。
 元久年間(1204~1206)に叡福寺の僧浄戒と顕光が石室に入り、太子の歯を盗んで東大寺の俊乗房重源に進呈したという記録が残る。二僧は流罪となり、歯は返還された。
 また貞和四年(1348)には、足利尊氏の臣高師泰の兵が乱入、石室内にあった砂金が全て盗まれ、遺骨が破損されたという。

叡福寺 聖徳太子廟

叡福寺 聖徳太子廟



 墳丘の周りは二重の結界石で囲われている。
 内側の結界石は空海が叡福寺に参籠した際に一夜で築いたという伝説がある。完成間際に鶏が鳴いたため未完成に終わり、以来この地では鶏を飼わなくなったという。また何度数えても結界石の数が合わないといわれ、御廟七不思議の一つとされている。
 外側の結界石は享保十九年(1734)の築造。

叡福寺 聖徳太子廟

叡福寺 聖徳太子廟



 結界石に沿って墳丘西側の石段を上っていく。
 寺の境内図等であまり紹介されていないため広く知られていないのだが、この石段の先に五字ヶ峯、別名御墓山の山頂がある。

叡福寺 五字ヶ峯への石段

叡福寺 五字ヶ峯への石段



 五色の光を発していたと伝えられる霊地五字ヶ峯の山頂には、正保年間(1644~1648)に建てられた宝篋印塔がある。これにも結界石がめぐらせてある。

叡福寺 五字ヶ峯の宝篋印塔

叡福寺 五字ヶ峯の宝篋印塔



 宝篋印塔の他には何もないが、古い絵図によると、かつてはここに釈迦堂もあったらしい。
 四方は樹木が繁っていて、山下の景色を見渡すことはできない。

 叡福寺南の高台にある西方院辺りに立つと、叡福寺伽藍の背後に座する五字ヶ峯のなだらかな二等辺三角形を見ることができる。
 太子廟や叡福寺が造られるずっと以前から、この山は神のおわす所だったに違いない。その整った稜線をしばし眺めながら、そんなことを考えていた。

五字ヶ峯と叡福寺

五字ヶ峯と叡福寺



叡福寺 御朱印 「上之太子」

叡福寺 御朱印 「上之太子」




参考文献:
◇井上正雄『大阪府全志 巻之四』 大阪府全志発行所 1922
◇三田浄久(著)/三田章(編)『河内鑑名所記』 上方藝文叢書刊行会 1980
◇永野仁(編)『日本名所風俗図会11 近畿の巻I』 角川書店 1981
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典27 大阪府』 角川書店 1983
◇太子町立竹内街道歴史資料館(編)『叡福寺の縁起・霊宝目録と境内古絵図』 太子町立竹内街道歴史資料館 2000
◇太子町立竹内街道歴史資料館(編)『石川三十三所の古寺と観音』 太子町立竹内街道歴史資料館 2001
◇太子町立竹内街道歴史資料館(編)『科長の里のむかしばなし』 太子町立竹内街道歴史資料館 2003


大きな地図で表示

このエントリーをはてなブックマークに追加