葉室の小宮さん

 大阪府太子町の葉室の集落を歩いていると、民家の屋根の向こうにこんもりと林が頭をのぞかせているのが見える。寺社参りが好きな人なら「ひょっとして神社があるかも」ときっと考える佇まい。そしてやはりそこには神が祀られていた。
 
◆葉室小宮 拝殿
葉室小宮 拝殿

葉室小宮
【はむろこみや】


鎮座地: 大阪府南河内郡太子町葉室

御祭神:
天照皇大神【あまてらすすめおおかみ】

創建: 元文二年(AD1737)

創祀: 池田清左衛門(藤兵衛)


 江戸期に河内国石川郡葉室村の庄屋を務めた池田家の第十六代当主清左衛門(藤兵衛)が、伊勢神宮に三十三度参拝したことを記念して元文二年(1737)九月に私有地内に祀ったものという。
 その後、何らかの理由(「このような宮を私有することは畏れ多いとして」と碑には記されている)で村に寄贈され、村民が共同管理することとなった。以来「小宮さん」と称ばれ大切にされてきた。

◆葉室小宮 本殿
葉室小宮 本殿

 祠の傍らに「佛眼上人之遺蹟」と刻まれた背の高い石碑が立っている。
 実は葉室小宮の祀られている場所にはかつて佛眼上人所縁の寺院があった。佛眼上人は最も歴史の古い巡礼とされる西国三十三所観音巡礼の縁起譚に登場する伝説的な人物だ。

西国巡礼元祖の寺

 西国巡礼の開祖とされているのは大和長谷寺の徳道上人だ。養老二年(718)のこと、病により生死の境をさまよっていた上人は冥府で閻魔王と対面する。閻魔王は三十三の観音霊場を巡る巡礼を世に広めて人びとを救うよう上人に告げ、起請文と三十三の宝印を授けて現世に送り返した。蘇生した上人は閻魔王の言葉に従い、三十三の霊場を定めた。しかし思うように普及しない。そこで上人は宝印を摂津中山寺の聖徳太子御影堂に納め、機が熟すのを待った。

 それから二百数十年後の永観二年(984)。十七歳で皇位に就いた花山天皇は師僧を求めていた。相応しい者がなかなかみつからず、神意を仰ぐべく熊野に勅使を派遣する。熊野権現に祈念した勅使は、帰京の道中で望みの僧と出会うであろうとの夢告を得る。帰途河内石川寺(叡福寺)の聖徳太子廟に参詣した勅使の前に、異僧が忽然と姿を現す。僧はみすぼらしい身なりだったが、その両眼からは金色の光を放っており、一目でただならぬ者であると知れた。勅使は僧を京へ同道し、天皇に引き合わせた。僧は「佛眼」という名を天皇より贈られる。そして佛眼が戒師となり天皇は落飾、退位して法皇となる。
 佛眼上人は法皇に、徳道上人以来絶えていた三十三所観音巡礼を衆生救済のために復興すべきであると勧め、中山寺に宝印と起請文が残されていることを告げた。こうして、先達を務める佛眼上人や播磨書写山円教寺の性空上人らとともに花山法皇は三十三所巡礼に赴き、後世に西国巡礼中興と称されることとなる。
 巡礼を終えると、佛眼上人は熊野に参詣すると言い残して姿を消す。実は佛眼上人は熊野権現の化身であった。
 佛眼上人をなおも慕う花山法皇は、上人が最初に現れた叡福寺に程近い葉室の地に師の名を冠した寺院を建立する。それが佛眼寺であるという。
 その址地の一角に葉室小宮は祀られている。

◆佛眼上人記念碑 「佛眼上人之遺蹟」
佛眼上人記念碑 「佛眼上人之遺蹟」

 江戸時代、庶民の間でも西国巡礼が盛んになると、佛眼寺は「西国巡礼元祖古蹟」として巡礼ルートに組み入れられ、多くの参拝者が訪れるようになる。
 しかし佛眼寺には、巡礼の道中に立ち寄る観光スポットとしての顔とは別の、もうひとつの顔があった。
 それは、三十三所を三十三回巡ることで満願となる「三十三度行者」と称ばれた巡礼者の本拠地としての顔である。

佛眼寺の三十三度行者

 三十三度行者は「セタ」と称する笈を背負って巡礼を行なった。セタには仏像や仏具、その他巡礼に必要な物が納められていて、開いて組み立てると祭壇になる。
 セタは「セタ元」と称ばれる寺院によって管理されていて、志願者はそれを借り受けることで行者となることができる。西国第一番札所青岸渡寺の記録によると、三十三度行者には住吉組・紀三井寺組・富田林組・嬉組・大仏組・葉室組の六つの組があった。
 このうち葉室組のセタ元だった佛眼寺にはセタが四基あって、行者となる者からいくばくかの保証金を受け取ってそれを貸し出していた。四基のセタはそれぞれ花山法皇・徳道上人・佛眼上人・性空上人より受け継がれたものと伝える。
 行者は西国札所を巡拝するだけでなく、その途次に「宿」と称ばれる家家に立ち寄らねばならない。セタに納められた「宿帳」にそれは記載されていて、そこに宿泊し、あるいは立ち寄ることは権利であると同時に義務であった。行者は宿泊や食事の便宜を得る対価として、セタを開いて死者の供養などの宗教行為を行なったというわけだ。また、一般庶民にとって数ヶ月をかけて実際に西国巡礼を行なうのは困難であり、位牌などを預かって代参を請け負うことも多かったようだ。
 行者は年に二回から三回、十余年をかけて三十三回の巡礼を行なったという。毎年十二月十七日に四人の行者は支配所である佛眼寺に集まる決まりになっていて、この時に寺に対して上納金を納めたらしい。
 このように信徒の家を廻りながらの巡礼を三十三度繰り返し満行に達すると、盛大な供養が行なわれた。その際に建てられた三十三度満願供養塔が各地に残っている。
 伊勢神宮への三十三度参拝を記念した葉室小宮は、この西国巡礼三十三度を意識したものだろう。



 明治六年(1873)、政府の宗教政策の煽りで佛眼寺は廃寺となる。拠点を失ったことで葉室組は一度解体するが、およそ十年後に復興している。その後昭和二十年(1945)頃まで存続し、行者を出していた。
 佛眼寺は明治末年に旧地の南に再興され、現在も地元の観音講によって法灯が守られている。

◆現在の佛眼寺
現在の佛眼寺


参考文献:
◇岩井好一(編)『太子町誌』 太子町役場 1968
◇金本朝一『太子町・当麻の道』 綜文館 1978
◇小嶋博巳(編)『西国巡礼三十三度行者の研究』 岩田書院 1993
◇太子町立竹内街道歴史資料館(編)『西国巡礼と葉室組行者』 1998
◇太子町立竹内街道歴史資料館(編)『科長の里のむかしばなし』 2003


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西国巡礼
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白洲 正子

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見事な滝の景観で有名な第一番那智山の青岸渡寺、第二番紀三井寺、大和の長谷寺、滋賀の石山寺、洛中洛外の清水寺、六波羅蜜寺、琵琶湖の竹生島等に、三十三番美濃の華厳寺、番外の花山院。全て自らの足で巡り、観音信仰の広大無辺、自然の中での精神の躍動を、自己の存在を賭けた言葉で語る著者初めての巡礼の旅。後の多くの名著の出発点となった美と魂の発見の旅、西国三十三ヵ所巡り。
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