遷都 Il trasferimento

三輪山を
しかも隠すか雲だにも
心あらなもかくさふべしや 額田王

 天智称制六年(667)三月十九日、 第三十八代天智天皇(この時はまだ即位していないため、正確には中大兄皇子なかのおおえのみこ)は飛鳥岡本宮から近江大津宮へ宮都を遷した。冒頭の一首は、当時を代表する女性歌人である額田王ぬかたのおおきみが遷都のために飛鳥を離れ、近江へ下る道行きに詠んだとされる歌だ。
 これが見納めになるかもしれないのに、三輪山を無情な雲が隠してしまった。雲よ、お前に心があるのなら、わたしの寂しい思いを汲んでくれるのなら、どうか隠さないで――。
 大和の象徴ともいえる三輪山にかかる雲に語りかけ、住み慣れた飛鳥との訣別を詠んだものだ。
 近江遷都の翌年に中大兄皇子は正式に即位し、律令法典の先駆といえる近江令や最古の戸籍とされる庚午年籍などの施策で新たな国家体制の確立を図り、律令政治の基礎を築いた。

 その近江大津宮の遺跡に程近い、宇佐山東麓の琵琶湖を望む佳地に近江神宮が鎮座している。天命開別大神あめみことひらかすわけのおおかみとも天照国照坐天地豊開別大神あまてるくにてらしますあめつちとよひらかすわけのおおかみとも美称される天智天皇を祭神として、紀元二千六百年の節目にあたる昭和十五年(1940)十一月七日に創祀となった新しい神社だ。

近江神宮 楼門

近江神宮 楼門



近江神宮
【おうみじんぐう】
鎮座地滋賀県大津市神宮町1-1
包括神社本庁
御祭神天命開別大神【あめみことひらかすわけのおおかみ】(天智天皇)
創建昭和十五年(AD1940)
社格等旧官幣大社 勅祭社 別表神社


 秀麗な朱の楼門をくぐると、近代神社建築の総決算と称ぶに相応しい荘厳な空間が広がる。
 本殿・祝詞殿・拝殿が棟続きとなった社殿は、「近江造」「昭和造」と称し伝統を踏まえつつ近代的要素を取り入れた新しい様式。律令国家の成立に向けて先進の政策を苛烈に推し進めた天智天皇を体現したような、威風凛然とした姿と感じた。

 近江は畿内ではない。当時の近江は飛鳥に住まう人にとっては「片田舎」という認識だったろう。王権の中枢を置く地として大津宮は異例といえた。『日本書紀』はこの遷都が歓迎されず、諷諫ふうかんする者多く、あげつらった流行り歌が流布し、毎日毎夜放火がおこったと記している。
 多くの反対を押し切ってまで、天智天皇はなぜこの地に都を遷したのだろうか。
 七世紀は東アジアの情勢が大きく変化した時期だ。中国大陸では隋を滅ぼした唐が王朝を建て、周辺諸国への影響力を強めていた。朝鮮半島では新羅を支援する唐により百済が滅亡、天智称制二年(663)に百済残党の要請に応えて日本は援軍を派遣するが、白村江はくすきのえで唐・新羅連合軍に大敗を喫してしまう。敗戦後、中大兄皇子は対馬や筑紫、長門などの防衛体制を強化し、唐の侵攻に備えた。九州の沿岸防衛のため配備された防人さきもりはこの時が始まりである。
 近江遷都もまた国防政策の一環という面が強かったようだ。唐や新羅が瀬戸内海を経由して難波から上陸して攻めこんで来た時、難波とさほど離れていない上に、外国使節が幾度となく訪れていて情報が周知のものとなっている飛鳥では防御性に問題があった。そのため、より内陸に位置し、かつ四方を山に囲まれた天然の要害である近江を首都として選んだものと思われる。
 さらに交通の要衝である点も遷都の理由のひとつだろう。東山道・北陸道・東海道といった幹線道が大津付近を通過しており、また琵琶湖の湖上交通もある。
 そして五世紀末以降、渡来系集団が多く近江に居住したことで文化的・経済的基盤が既に確立しており、新しい都の造営にその技術や経済力を活用し得たことも大きい。早くから渡来人が入植して水田開発などにあたっており、農業生産力は高かった。琵琶湖を擁し肥沃な平野の広がる近江は元来農業に適していたこともあり、平安時代の史料によると近江の水田面積や米の生産高は群を抜いていた。また奈良時代には近江は製鉄の一大拠点となっており、多くの製鉄遺跡がみつかっているが、これも渡来系によるところが大きい。これらの豊かな生産力が政権を支える大きな力になることが期待されただろう。
 それら近江大津の地勢・地理が遷都の要件と合致したことに加えて、大化の改新以来の一連の改革を断行するには、それに不満を抱く勢力の地盤から離れた土地で新たな体制を構築する必要があったという事情もあり、大津の地が選ばれたのだろう。

近江神宮 外拝殿

近江神宮 外拝殿



栄華 La prosperità

あかねさす
むらさき野ゆき標野ゆき
野守は見ずや君が袖ふる 額田王

 近江遷都の翌年、天智天皇七年(668)一月に天智天皇は即位し、同年二月には弟の大海人皇子おおあまのみこを皇太弟に指名した。
 そしてその年の五月五日、蒲生野がもうのにて薬猟くすりがりをおこなった。「蒲生野」とは近江国東南部の蒲生郡の野というほどの意味で、どこでおこなわれたかははっきりしない。「薬猟」というのは山野に出て強壮剤となる鹿茸ろくじょう(鹿の若角)や薬草などを採取した宮廷行事のことで、華やかな装束で着飾ったので「着襲きそい狩り」ともいった。前年激しい抵抗を退けて遷都を敢行し、年頭に正式に即位したばかりの天智天皇にとって、皇弟大海人以下諸王・群臣がことごとく従ったというこの行事は単なる行楽などではなく、天皇の威勢を世に示し、その治世が磐石なものとなりつつあることを知らしめるために不可欠なものだったに違いない。
 額田王の歌はその時に詠まれた有名な一首。大海人皇子に向けたものだ。
 紫草の生える標野しめの(一般人の立ち入りを禁じた土地)を行きながらそのようなことをなさるなんて。野の番人に見られてしまいますよ、あなたが私に袖を振るのを――。
 これに大海人皇子が応える。

むらさきの匂へる妹を憎くあらば人妻故に吾れ恋ひめやも

 紫草のように美しいあなたを憎く思っているとしたら、今は人妻であるあなたをこんなにも恋しく想うものか――。
 この応酬歌を理解するには額田王の人物について知る必要がある。
 額田王は父親が鏡王かがみのおおきみであること以外、その出自についてはほとんど何もわからない。鏡王自体の経歴も不詳である。『日本書紀』によると大海人皇子との間に十市皇女とおちのひめみこを生んでいる。その後、大海人の兄である中大兄皇子の寵愛を受けたとされる。
 つまり額田王と、その元の夫である大海人、今の夫である天智天皇、三者による三角関係の図式が背景にあるということになる。天智の目を盗んで求愛の袖を振るかつての想い人を、天皇の御料地である狩場でそんな大胆なことをして見つかったら大変ですよとたしなめる額田王に対して、なおも想いを訴える大海人。そんな秘めた恋の歌のやりとりだといわれてきた。
 しかし、実情はどうも違うようである。これらの歌は宴の席での戯れであったとする説が濃厚らしい。おそらくは天智もその場にいる中で、過去の関係をネタにして大海人をからかう額田王、それに乗って即興で返す大海人皇子。二人はこの頃既に四十歳近い。大人の余裕のなせる座興に周囲は拍手喝采だったのではないだろうか。そもそも、額田王が天智天皇の後宮に入ったとされる説については、万葉集にあるこの応酬歌などから想像を膨らませたものであって、事実ではないともいう。

 翌天智天皇八年(669)十月に腹心であり盟友であった中臣鎌足なかとみのかまたりが死去するが、天智は改革の手をゆるめることなく、我が国初の戸籍である庚午年籍を作成して公地公民制への道筋をつけたことをはじめ、政治・文化・産業の多方面で中央集権国家構築へ向けた政策を精力的に推し進めている。
 近江神宮の境内には国内外の時計業者から奉納された漏刻ろうこく(水時計)や日時計が設置され、時計博物館が併設されている。また時計技術者の専門学校の経営にも携わっている。これは天智天皇十年(671)大津に漏刻を設置し鍾鼓を打って初めて時間を知らしめたという記録に因んだもので、祭神の天智天皇は時の祖神ともされている。

 その間も高句麗が唐・新羅連合軍によって滅ぶなど国際情勢はなおも不穏な動きを見せていたが、河内・大和国境の高安城を改修したり新たに筑紫・長門に城を築くなど防備を固める一方で、唐に使者を派遣するなど外交政策にも抜かりがない。

近江神宮 御朱印

近江神宮 御朱印



 天智天皇十年(671)一月、天智天皇は左右大臣の上に太政大臣の職を定め、子の大友皇子おおとものみこを任命した。当時の太政大臣がどのような職務を担いどのような権限を行使できたのかは詳かでないが、天皇の政務を代行する摂政に近い位置づけであり、事実上の皇位継承予定者だったともいわれる。
 しかし、三年前に天智は弟の大海人皇子を皇位継承者としていた。天智が後継者としてどちらを相応しいと考えていたのか真相はわからないが、このとき同時に大規模な人事刷新をおこなって大友の補佐体制を整えており、大海人はずしへの布石ともとれる動きではある。
 この人事では自らに近しい氏族出身者のほか、滅亡した百済からの亡命者も多数要職に採用しており、多くの有力豪族や旧来の渡来系氏族の反発を買ったようだ。

橘は己が枝枝なれれども玉に貫く時同じ緒に貫く

 それぞれ別の枝に生った橘の実なのに、玉として緒に通すときには同じ緒に通すとは――。
 生まれや身分の違う者を等しく登用した体制を揶揄して、そんな風刺歌が口ずさまれたという。その穏やかならざる響きは後に吹き荒れる嵐を予感させるようだった。
 そしてその年の九月、天智天皇は病に倒れる。

後編に続く》



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大津京と万葉歌 天智天皇と額田王の時代
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