藤原豊成という人がいる。
 日本史上きっての名族藤原氏の氏祖・鎌足の曾孫にして藤原一族の氏上(長者)であり、従一位右大臣にまでなった人物だが、弟の仲麻呂(恵美押勝)の陰に隠れて存在感は少少薄い。知名度はお世辞にも高いとはいえまい。
 だが中将姫の父親だといえば、「ああ、あの」と膝を打つ人も多いのではないだろうか。

 その藤原豊成の邸宅が一説にならまち(奈良町)の鳴川町辺りにあったという。鳴川町に大きな敷地を有する徳融寺は豊成邸跡と伝えられる地に建つ寺院のひとつだ。

◆徳融寺 山門
徳融寺 山門

豊成山高林院徳融寺
【とよなりさんこうりんいんとくゆうじ】


所在地: 奈良県奈良市鳴川町25

宗派: 融通念佛宗

御本尊:
阿弥陀如来
十一尊天得如来

創建: 天文十三年(AD1544)(再興)

開山: 興善法印(再興)

寺格等: 融通念佛宗大和七ヶ大寺

別称/旧称: 高林院 鳴川大念佛寺


 徳融寺はもと元興寺の別院で高林院と号し、現在地よりも少し北にあった。さらに歴史を遡ればその起源は元興寺域内に在した聖観音堂にあるともいうが、その辺りは詳らかでない。宝徳三年(1451)の土一揆で元興寺の大部分が焼亡したとき、高林院もまた荒廃したらしい。
 それから百年近く後の天文十三年(1544)、興善法印によって再興される。意順なる住僧の手により藤原豊成旧蹟と伝わる現在地に遷されたのは天正十八年(1590)のことという。融通念佛宗(大念佛宗)に属したのは慶長十六年(1611)頃と思われる。村井古道『奈良坊目拙解』に「南都年代記曰慶長十六年辛亥鳴川大念佛建立云云」とある。その後は奈良における念仏道場の一大拠点として信仰を集め、大和七ヶ大寺のひとつに数えられた。

◆徳融寺 本堂
徳融寺 本堂

 休岸上人により寛文七年(1667)建立の本堂には本尊の木造阿弥陀如来立像と十一尊天得如来画像を祀る。
 阿弥陀像は「柔和仏」「如法仏」と称され、寺伝によると源頼朝の妻・北条政子の念持仏であったものという。政子没後に北条執権家の信頼篤かった忍性律師が引き取り、時代が下ってこの寺に寄進された。
 十一尊天得如来は融通念佛宗独自のもので、宗祖である聖応大師良忍が感得したという、観音・勢至・薬上・虚空蔵・徳蔵・宝蔵・光明王・日照王・月光王・三昧王の十菩薩とともに来迎する阿弥陀如来の姿を描いた画。

◆徳融寺 毘沙門堂
徳融寺 毘沙門堂

 毘沙門堂は寛永九年(1632)の建立。江戸初期の小規模仏堂の好例として奈良市指定文化財となっている。『奈良坊目拙解』はこの堂の毘沙門天像を運慶作と記す。
 融通念佛宗では毘沙門天を護法神として特に崇拝している。良忍上人のもとに鞍馬寺の毘沙門天が顕現し融通念仏を守護すると告げたという説話でその縁起が語られるが、火災に遭った鞍馬寺再建のために良忍ら京都大原の念仏聖が勧進をおこなったという史実に見られるような、良忍と鞍馬寺の密接な関係を反映したものだろう。

 また、観音堂には子安観音立像と薬師如来坐像が安置されている。



◆徳融寺 藤原豊成供養塔
徳融寺 藤原豊成供養塔

◆徳融寺 中将姫供養塔
徳融寺 中将姫供養塔

 冒頭で述べたように、この寺は藤原豊成邸跡であると伝えられ、豊成とその娘中将姫の旧蹟とされている。
 境内に二基の宝篋印塔があり、豊成と中将姫の供養塔だという。これは徳融寺の南東二百メートルにある井上町の高林寺から延宝五年(1677)に遷したもの。高林寺もまた豊成邸跡と称して豊成・中将姫の像を本尊とし、豊成の墳墓があり、中将姫の修道の場であったとされる。
 この石塔がまだ高林寺にあった永禄年間(1558~1570)、松永久秀が多聞山城を築くにあたり、建材として石塔を徴収しようとした。高林寺に住していた連歌師の芦笋斎心前法師はこれを阻止すべく、
  曳のこす花や秋さく石の竹
という発句を久秀に贈る。「石の竹」はナデシコ属の花セキチクのこと。抜かずに残したセキチクが秋に花を咲かせるということを石塔にかけて詠んだもの。梟雄のイメージが強いが一流の教養人でもある久秀だから、その意味するところを即座に理解しただろう。久秀がどう返したかは伝わっていないが、石塔は持ち去られずに済んだ。

 ところで、この寺院が豊成山徳融寺と号すのは延宝五年(1677)以後、つまり豊成と中将姫の供養塔を遷し置いてからだという。とすると、それ以前は中将姫旧蹟として喧伝していなかった可能性がある。実際、この宝篋印塔以外に豊成や中将姫にまつわる事物はこれといって見当たらない。中将姫が継母に縛られて折檻を受けた松の木や突き落とされた崖と称するものはあるが、これらは浄瑠璃や歌舞伎で広く知られた場面を題材にしたテーマパークのアトラクションの如きもので、古くからの伝承とは考え難い。
 そもそも、この地に右大臣豊成の館があったという伝承自体が当てにならない。『奈良坊目拙解』は、徳融寺の南東にある誕生寺が荒れ果てていたところに尼僧が住み着いて法如尼(中将姫の出家名)像を祀り中将姫誕生所と称したのがその伝承の始まりとし、採るに足らない妄説だと一蹴している。誕生寺の名の由来は中将姫などではなく、釈迦誕生仏を安置したことによるという。
 だからといって、この地に根付いた中将姫信仰を否定することはできないだろう。
 徳融寺のすぐ南はかつて木辻遊郭と称ばれた場所だ。生母を幼くして失い、継母に苛められ、生命を危うくする程の苦難を乗り越えて生き身のまま浄土に召されたという中将姫の伝説は、苦界に生きる遊女たちにとって救いであり日日の拠りどころとなったであろうことは想像に難くない。
 この地が本来中将姫と何ら縁の無い土地だったとして、誕生寺の尼僧が中将姫に捧げた純粋な祈りを誰が否定できよう。遊女たちが中将姫に託した想いをどうして嗤えよう。
 信仰とはそういうものだろう。人びとの想いが神仏を創り上げ、育ててゆく。


参考文献:
◇村井古道/喜多野徳俊(訳註)『奈良坊目拙解』 綜芸舎 1977
◇奈良市史編集審議会(編)『奈良市史 社寺編』 吉川弘文館 1985


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