神武天皇畝傍山東北陵の参道を出て車道を東側へ渡ると大久保町の住宅街。
その西の端に、深い森に囲まれて神社がひっそりと佇む。この辺りが大窪村だった頃から氏神社として鎮座する大久保神社だ。

◆大久保神社 境内入口
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大久保神社【おおくぼじんじゃ】

鎮座地: 奈良県橿原市大久保町内垣内245

包括: 神社本庁

御祭神:
神日本磐余彦命【かむやまといわれひこ】(神武天皇【じんむ】)
媛蹈鞴五十鈴姫命【ひめたたらいすずひめ】

創建: 不詳

社格等: 旧村社

別称/旧称: 神武天皇宮 天一大明神 大窪神社

社殿は畝傍山や神武陵を背に東面して建つ。
境内はとても綺麗に整備されている。今なお篤い信仰に支えられているのが判る。
天和二年(1682)五月銘の石燈籠がある。

社家は松原家で、永禄八年(1565)以来、京都の白川伯王家(伯家神道の家元)から神職免許を受け代代世襲していた。白川家では同家を「神武天皇御陵神主」と称んでいたという。

◆大久保神社 拝殿
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祭神は神武天皇とその妃だが、元は天一神を祀るともいう。「大久保村天一大明神」と記された万治三年(1660)銘の湯釜が伝わる。
天一神は陰陽道の方位神で、特に平安時代に盛んだった「方忌み」の風習において最も重要な神の一柱。決まった周期で八方を巡るとされ、天一神のいる方角は凶方と見なされたので、その方位に向かって行動することを避けた。
例えばある目的地に向かう際、その方角に天一神がいると真っ直ぐに進むことができない。そこで別の方角にある知人の家等に一泊し、翌朝そこから目的地に向かうといったことをおこなった。それが「方違え」である。

◆大久保神社 本殿
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南東に国源寺があり、その付近からは白鳳期の建立とされる大窪寺の遺構が出土している。大久保神社の北側には西今度(西金堂)や南塔垣内といった、寺院てあったことを窺わせる小字名も残る。大久保神社の鎮座地も位置関係から見て大窪寺の寺域であった可能性があり、あるいは創建は大窪寺に絡むものかもしれない。
《続く》

参考文献:
◇角川日本地名大辞典編纂委員会(編)『角川日本地名大辞典29 奈良県』 角川書店 1990


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