聖徳太子御遺跡 第五番
青龍山徳蓮院野中寺
【せいりゅうざんとくれんいんやちゅうじ】


所在地: 大阪府羽曳野市野々上五丁目9-24

宗派: 高野山真言宗

御本尊:
薬師如来

創建: 飛鳥時代

開基: 聖徳太子 蘇我馬子

寺格等: 河内三太子 律院三僧坊

別称/旧称: 中之太子

納経題字: 中之太子


◆野中寺 山門
野中寺 山門

 野中寺は丹比郡野中郷を本拠とする渡来系氏族の船氏により氏寺として建てられたとするのが有力だが、はっきりしたことは判っていない。
 寺伝によると、蘇我氏と物部氏が戦った丁未の乱の際に蘇我方の厩戸皇子(聖徳太子)が休息をとったのがこの地であり、後に太子の発願により蘇我馬子が建立したという。

◆野中寺 本堂
野中寺 本堂

 三太子のひとつとして「中之太子」とも称し、太子の御廟がある「上之太子」叡福寺、太子の戦勝を記念して建てられたという「下之太子」大聖勝軍寺とともに河内における聖徳太子信仰の一大聖地だった。
 三太子巡礼は中世以降盛んになったといわれ、やはり太子開基を伝える摂津四天王寺と合わせて参拝するのが流行したという。

 四天王寺から奈良街道(龍田越)を東へ向かうと街道沿いに大聖勝軍寺、さらに東進すると東高野街道との交差地点に差し掛かる。東高野街道を南へ進み、道明寺を経由して西琳寺に到り、そこから竹内街道を西へ少し辿ると野中寺に着く。
 現在の奈良県葛城市長尾付近と大阪府堺市中心部とを東西に繋ぐ竹内街道(丹比道)は最古の官道といわれ、古代における主要幹線道路だった。その街道に面して野中寺の壮麗な南大門がかつて聳えていた筈である。
 しかし南北朝時代に伽藍は焼亡し、江戸時代に律宗の道場として再興されるまでは廃寺同然だったらしい。現在の仁王門はかつて中門のあった場所で、今は無き南大門はさらに百メートルほど南にあったようだ。
 発掘調査により法隆寺式伽藍配置の大寺院であったことは判っている。ただ法隆寺と違い金堂と塔が向かい合う特異な配置で、「野中寺式伽藍」と特にいわれることもある。法隆寺よりも古い形式とされている。
 塔跡から「庚戌年正月」と刻まれた瓦が出土し、文様から大化六年(650)と比定されている。創建時期を推定できるものとして貴重な遺物だ。

◆野中寺 塔心礎 亀の線刻がある
野中寺 塔心礎

 江戸時代後期の観光案内書『河内名所図会』には野中寺が絵図入りで詳しく掲載されている。絵が添えられているのは限られた名所だけだから、聖徳太子ゆかりの寺として、また律僧の学問所としての当時の隆盛が偲ばれる。
 本尊薬師仏や観音堂本尊の聖観音(現在は近隣の法泉寺に安置)が聖徳太子作として記されるほか「太子閼伽井」なる旧跡も紹介されていて、聖徳太子関連の記述が目立つが、興味深いのは「伽藍古礎 境内に多し」と書かれ、絵図にも礎石がはっきりと描かれている点。その頃から古代の遺構としてきちんと整備されていたようだ。

 地蔵堂の傍らに目を引く石像が置かれている。一見して渡来人風の姿をしているが、聖徳太子だと言う人もいる。いつの時代のものかは判らない。

◆野中寺 石像と地蔵堂
野中寺 石像と地蔵堂

 野中寺といえば、大正七年(1918)に蔵から「再発見」された金銅弥勒菩薩半跏思惟像が仏像好きの間では有名である。江戸時代中期の寺の記録に見え、『河内名所図会』にも「聖徳太子悲母追福の為に鋳せられし霊尊」と記されている。おそらく明治の神仏分離政策のゴタゴタの中で所在がわからなくなっていたのだろう。
 高さ二十センチメートル足らずの小さなものだが、台座の框に彫られた銘文の解釈を巡って諸説紛紛、果ては贋作説まで飛び出す曰く付きの像だ。
 この像については長くなりそうなのでいつか機会を改めて詳しく書こうと思う。

◆野中寺 御朱印 「中之太子」
野中寺 御朱印


参考文献:
◇秋里籬嶋(編),丹羽桃渓(画)『河内名所図会』 柳原書店 1975


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