◆西光院 山門
西光院 山門

大和北部八十八ヶ所 第三番
紫雲山西光院
【しうんざんさいこういん】


所在地:奈良県奈良市高御門町21

宗派:華厳宗

御本尊:
弘法大師

創建:不詳

別称/旧称:廿日大師 西室

御詠歌:とむろうてまいるこころは西光院みちびきたまえあじのふるさと/たずぬべきほかにはみちもなかりけりこころぞのりのしるべなりける


◆西光院 寺号標
西光院 寺号標

 現在ならまち(奈良町)と称ばれている地区の大部分は、かつて大伽藍を誇った元興寺の寺域であった。
 室町時代中期まで元興寺の西南大門があったという高御門町の、格子戸の町家が点在する風情ある街並の中に一際目立つ白塀。それが大和北部霊場第三番札所・西光院だ。
 元は元興寺の塔頭であったといい、同じく元興寺子院であった十輪院の隠居寺として建てられたともいう。
 通りを挟んだ東向かいは元興寺域内の小塔院のあったところだから(現在は虚空蔵菩薩を祀る小堂が建つのみ)、西光院は元興寺に接して建っていたことになる。

◆西光院 本堂
西光院 本堂

 西光院の本尊は初め小野篁作と伝わる地蔵菩薩だったが、東大寺樋之坊(宝珠院)の十一面観音とどういういきさつか判らないが交換したらしく、以後は十一面観音が本尊となる。享保(1716~1735)の頃とみられる。この十一面観音立像(国重文)は現在奈良国立博物館に寄託され常設展示されている。
 現在は弘法大師坐像が本尊となっているが、いつ替わったのかは不明。奈良博に寄託して以降との情報もある。
 弘法大師像は寛文十一年(1671)に元林院町の賢成庵(善法堂)から遷されたもので、「はだか大師」の異名を持つ。文字通り、裸形像である。
 裸形の仏像は鎌倉時代の一時期に一部で流行し、奈良にも三裸形と称ばれる像が現存する。この西光院の弘法大師像と、伝香寺の裸地蔵菩薩、璉珹寺の白色阿弥陀如来がそれだ。他に、昭和五十九年(1984)に発見された新薬師寺のおたま地蔵もある。

 弘法大師は三月二十一日に入定したことから通常二十一日に法会が営まれるが、西光院では逮夜(前夜)の二十日に法要を行うため、「はつか大師」とも称ばれる。異説として、大師が入定前日の三月二十日に自ら彫ったためそう称ばれるともいう。

◆西光院 本堂内
西光院 本堂内

 玄関にて声を掛けると、堂内に上がらせていただくことができた。御朱印を待つ間、しばし大師像に手を合わせる。
 黄色い衣を纏った大師は中央の厨子の中で穏やかな表情を浮かべておられた。
 忘れもしない、この日は大雨が降り、西光院に着いた頃には止んでいたが、靴の中まで雨が浸みていたせいで畳を濡らしてしまった。今も思い出しては心苦しい。

 この裸形大師像には不思議な言い伝えがある。
 ある時、住職がいつものようにお勤めをしていると、大師のへそから突然米が湧いて出てきた。以来、住職一人が一日に食べるのに丁度良い量の米が毎日出るようになったが、欲をかいた住職が「へそを大きくすればもっと米が出るのではないか」と像のへそを削って穴を大きくしたところ、米がぱったり出なくなってしまったという。

◆西光院 御朱印 「遍照殿」
西光院 御朱印

 実は今年平成二十七年(2015)四月二十日、十年に一度の大師像の衣替えが行われたのだが、是非再訪しようと思っていたのをすっかり失念していた。無念。


参考文献:
◇村井古道/喜多野徳俊(訳註)『奈良坊目拙解』 綜芸舎 1977
◇奈良市史編集審議会(編)『奈良市史 社寺編』 吉川弘文館 1985
◇武石伊嗣/武石万里子『全国三十三カ所観音霊場および全国八十八カ所霊場ご詠歌集』 神谷書房 2009


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