こよみ 白露 末候 第四十五候 玄鳥去 つばめさる

河内と紀伊の国境にある紀見峠の歴史は古い。南海駅路の新道としてこの峠を越える道が開かれたのは、平安遷都から間もない延暦十五年(796)のこと。その後空海が高野山を開創すると、京都・大坂からの参詣道として大いに賑わうようになっていった。葛城山脈を越える道としては、この紀見峠越えが最も標高が低く、通行の難が少なかった。紀州を一望できるこの峠を、数多の旅人が往き交った。 ...

大和の西の玄関口と称ばれる王寺は、古くから交通の要衝だった。信貴・生駒山系と葛城・金剛山系の接点にあたり、大和盆地各地を流れる河川が集まり大和川となって、この地を経由して大阪へと注いでおり、水運の拠点となっていた。陸路では、河内から奈良へ至る奈良街道と、當麻寺を経て紀州へと続く道の分岐点にあたり、多くの人馬が往来した。 ...

世界に天と地が初めて現れ、天上の高天原では天之御中主神【あめのみなかぬしのかみ】を始めとして多くの神神が生まれた。その最後に生まれたのが男神伊邪那岐神【いざなぎのかみ】と女神伊邪那美神【いざなみのかみ】だった。現れたばかりの陸地はまだ形が定まらず、くらげのようにゆらゆらと海の上を漂っていた。神神はイザナギとイザナミに天沼矛【あめのぬぼこ】を授け、漂う陸地を固めて国土を創るように命じた。 ...

都久夫須麻神社から「舟廊下」の称がある渡廊を進む。その名は、豊臣秀吉が御座船とした日本丸の船櫓を用いて造営されたという伝承に因む。廊下の先は宝厳寺の観音堂。西国三十三所三十番札所として千手千眼観世音菩薩を安置する。宝厳寺と都久夫須麻神社は明治までは一体であり、その境界線がどこなのか傍目にははっきりわからない。 ...

彦根港を出ておよそ四十分、船は竹生島の桟橋に接岸した。琵琶湖北部に浮かぶ竹生島は、古くから神の坐す島として信仰対象となり、現在は島の南側に都久夫須麻神社と宝厳寺が建つ。竹生島にはおおらかで雄大な誕生説話が伝わる。霜速比古命【しもはやひこのみこと】に三柱の御子神がいた。長姉は比佐志比売命【ひさしひめのみこと】、一名を坂田比売命【さかたひめのみこと】といい、久恵峯(霊仙山)にいた。 ...

薬師寺の鎮守社休ヶ岡八幡宮に隣接する末社孫太郎稲荷神社は、田原藤太秀郷四代の孫藤原頼行が下野国唐沢山(栃木県佐野市)に祀った稲荷社にその濫觴を持つという。頼行後裔の足利孫太郎家綱、あるいは佐野孫太郎義綱が社を再興したことに因んで孫太郎稲荷と称した。 ...

その壮麗さを龍宮城にも例えられる薬師寺。南門の南に、休ヶ岡八幡宮の古色鮮やかな社殿が鎮座する。「古色鮮やか」とは我ながら矛盾したおかしな言い回しだと思うが、この社殿に限っては、私にとってしっくりくる表現なのだ。古びて色褪せているのは間違いないのだが、なんともいえない華やかさがある。艶がある。それは、再建されたのが桃山時代ということで、古式を重んじつつも当時の絢爛豪華を好む気風が表れているからとも言えるし、東塔と東院堂を除いて新しい建造物が建ち並ぶ薬師寺白鳳伽藍の、ある意味での軽やかさ、若若しさとの対比における、古さ故に醸し出される色気のようなものがそう思わせるのかもしれない。 ...

東大寺大仏殿中門の前を過ぎて鏡池を右に見ながら東へ歩くと、朱の鳥居が現れる。その向こうに参道がまっすぐのびている。ここから先は東大寺の鎮守として創建された手向山八幡宮の神域。参道に人影はまばら。やがて楼門が見えてくる。門をくぐる。大仏殿周辺の喧騒と打って変わり、八幡宮境内はひっそりと静まり返っている。他に誰の姿も見えない。ここまで足をのばす観光客は多くないのだ。 ...

おふさ観音の通称で知られる無量山観音寺は、橿原市小房町にある小さな寺院。毎年七月と八月の二ヶ月間行われている風鈴まつりへ行ってきた。昔、大和国高市郡四分村におふさという娘がいた。この一帯が鯉ヶ淵という大きな池だった頃のことだ。慶安三年(1650)四月十八日早朝、おふさが池のそばを歩いていると、突然水面に波が立ち、朝霧の中から観音菩薩が白い亀の背に乗って現れた。 ...