こよみ 雨水 次候 第五候 霞始靆 かすみはじめてたなびく

和泉市春木町に鎮座する春木春日神社は、古来松尾谷諸村の総鎮守といわれ、奈良時代の創建を伝える古社。中世、松尾谷の一帯は春木荘と称して奈良春日大社の荘園となっており、その鎮守社として勧請されたものとみられる。口碑によると、往時この地に住した物部系氏族の韓国連【からくにのむらじ】が祖神を祀り「物部布留神社」と称したが、 ...

西国三十三所観音巡礼は、およそ千三百年の歴史を持つといわれる日本最古の巡礼行。紀伊・和泉・河内・大和・山城・近江・丹波・摂津・播磨・丹後・美濃の十一ヵ国、現代の行政区分でいうと和歌山・大阪・奈良・京都・滋賀・兵庫・岐阜の七府県にまたがる三十三の観音霊場を巡拝する。 ...

太古、大阪平野はその殆どが海に覆われていた。東は生駒山地、北は千里丘陵、南は河内台地と泉北丘陵に至るまで遠浅の海が入り込み、河内湾を形成していた。そして西には現在「上町台地」と称する半島状の地形が南から北に向かって河内湾に蓋をするように延びていた。その半島の北の突端「難波碕」が生國魂神社の当初の鎮座地だった。今の大阪城の辺りだ。 ...

大阪北浜エリアの道修町【どしょうまち】。ひしめくオフィスビルの谷間に、薬の神を祀る少彦名神社が鎮座している。道修町は江戸時代初期より薬の町として知られ、今も多くの薬品会社がオフィスを構える。寛永年間(1624~1645)、堺の小西吉右衛門が将軍徳川秀忠の許しで道修町一丁目に薬種屋を開いたのに始まり、その後享保七年(1722)に幕府が道修町の薬種商百二十四軒を株仲間として認可、清やオランダからの輸入薬(唐薬種)の独占販売権を得た。 ...

生國魂神社の境内末社のひとつに鴫野神社がある。祭神は市寸島比賣神と大宮賣神、そして淀姫神。元は大坂城の北東、鴫野村の弁天島という川の中州に祀られていた。弁天島は今「大阪ビジネスパーク(OBP)」と称ばれている辺り。弁天社は片町橋南詰東側の竹藪の中にあった。女性の心願成就、縁結びや悪縁切りに霊験あらたかと評判が高く、巳の日にはお参りする人が群れをなしたと伝わる。 ...

海石榴市【つばいち】は現在の桜井市金屋付近にあった我が国最古といわれる市場で、奈良の都へ続く山の辺の道、飛鳥へ通じる磐余の道、大和と伊勢を結ぶ初瀬街道、二上山へと延び竹内街道につながる横大路といった幹線道路が交錯し、大和盆地を横断して河内に注ぐ大和川水運の終着点でもあり、「海柘榴市の八十【やそ】の衢【ちまた】」と万葉歌に詠われた交通の要衝だった。 ...

旧和泉国大鳥郡上石津村の産土神である石津神社は、小栗判官が土車に乗って熊野を目指したという小栗街道沿いに社地を構えている。最古の戎神社と称するこの神社の創祀伝承は遥か神代に遡る。 恵美酒大神がこの地に降臨し、携えて来た五色の石を置いたのが始まりで、その故事により「石津」の地名が生まれたという。その後、第五代孝昭天皇七年(BC469)八月十日に、勅によって恵美酒大神を奉祭する社殿が建てられた。 ...

三韓征伐を終えて帰国する神功皇后の船団最後尾の船がこの地の海岸に着いたことからその名があるという和泉国大鳥郡船尾村は、明治二十二年(1889)に下石津村・下村と合併して浜寺村大字船尾となる。一村一社の原則を掲げる神社合祀令が出されたのは明治三十九年(1906)のこと。これにより大阪府の神社数は三割近くに減ったという。船尾には村社諏訪神社と無格社八幡神社があったが、明治四十年(1907)十二月十日、ともに下石津の石津太神社に合祀された。 ...

神代の昔。伊弉諾命と伊弉册命の間に生まれた蛭子命は、三歳になっても立つことができなかったため、天磐樟船に乗せて海に流された。船は波のまにまに風のまにまに漂い、ある海岸に流れ着いた。蛭子命が携えて来た五色の神石を置いたことから、その地を石津と称し、船の漂着した所を石津の磐山というようになった。それから遥かに時を経て、五代孝昭天皇の御代、蛭子命を祀る社殿を建てたのが石津太神社の始まりだという。我が国最古の戎社と称している。 ...

和泉葛城山上に鎮座する八大龍王社(高龗神社)についての諸事を記した『葛城峯宝仙山萬覚帳』に、同社の縁起が次のように書かれている。ある時、弘法大師と「しるびん大師」が法力対決を行った。しるびん大師が降雨を司る諸龍神を「摩訶」の二字を以て縛ったため、日本中が百日にわたる大旱魃に見舞われた。対する弘法大師は「般若波羅密多」と誦えて海の龍王に祈請した。すると八大龍王が泉州脇浜浦の、今では龍王島と称する所に出現した。 ...