こよみ 白露 末候 第四十五候 玄鳥去 つばめさる

永井信濃守尚政が山城淀十万石の藩主として淀城に入ったのは大御所徳川秀忠の死の翌年、寛永十年(1633)のこと。尚政は十六歳で秀忠の小姓となって以来秀忠の側近として仕え、老中まで務めた。同じく老中井上正就・京都所司代板倉重宗と共に秀忠近侍三臣と称された。 ...

M県S市紅葉区杜王町に鎮座する六壁神社は、飛鳥時代の創祀を伝える古社。杜王町はS市のベッドタウンとして発展してきた。町の南を流れる一小川【いちおがわ】流域を中心に縄文時代の住居跡が多数みつかっており、早くから集落が形成されていたことがわかっている。 ...

千代神社の創祀は第八代孝元天皇の皇女倭迹迹姫命【やまとととひめのみこと】誕生の時と伝えられている。のち第十七代履中天皇御宇(400~405)に再建されたという。かつては多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)の末社であった。千代宮【ちよのみや】と称していたが、明治二年(1869)現社名に改めている。 ...

井伊家ゆかりの社寺めぐり(井伊家ゆかりのふく福めぐり)は、「十徳果報を授かる」という謳い文句で、彦根市内を中心とする十ヶ所の社寺史跡を巡る巡礼として平成二十一年(2009)に始まった。翌年には新たに三ヶ寺が加わって十三ヶ所となり、その後さらに湖東三山と称ばれる三ヶ寺も追加され、現在は十六ヶ所となっている。 ...

急な出立だった。明日の朝、この村を出て三重谷へと向かう手筈になっていたので、道中召し上がっていただこうと村人たちは夕刻から餅米を蒸し、小豆を炊いてぼた餅を作る準備をしていた。それが急遽夜のうちに出発することになり、仕方ないので蒸しあがったばかりの米に小豆を投入して軽く混ぜ、丸めて竹皮に包むことにした。日下部連使臣と吾田彦の父子が一人の女性とその子である二人の幼い兄弟を連れて村を訪れたのはつい半月程前のことだ。 ...

むかし、丹後の比治の里のはずれに和奈佐翁という老狩人とその妻が住んでいた。夫婦は貧しく、その日その日を慎ましく暮らしていたが、子供のいない二人にとってはそれで不足はなかった。いつものように翁が山で獲物を探していると、空を横切るいくつかの影が視界に入った。鳥かと思ったが、それにしては大きい気もする。比治山の頂近くに「真奈井」と称する清水の湧く泉がある。影はその辺りに降りて行ったようだ。 ...

崇神天皇五年、疫病が流行して民の半数以上が死亡するという事態が訪れる。翌年になっても収まる気配はなく、土地を離れて流浪する者、反逆する者が相継ぎ、政が立ち行かなくなった。天皇が天神地祇に伺いを立てたところ、当時宮中に天照大神【あまてらすおおみかみ】と倭大国魂【やまとおおくにたま】を並祭していたのだが、両神が共に住んでいることに問題があるのだという。 ...

泉州松尾寺は「松尾の山寺」と称ばれ、最盛期には寺坊三百六十余を数えたという一山寺院。今やその面影はなくひっそりとした境内を、本堂や不動堂を過ぎて奥へ進むと、古びた石鳥居が現れる。ここから先は松尾寺春日神社の神域。松尾寺春日神社は四所明神の名で松尾寺の鎮守神として同寺に祀られていたものだが、神仏分離によって切り離された。 ...

尼崎の櫻井神社は尼崎藩主であった櫻井松平家の祖信定公を祀る霊社として、旧藩士を中心とする結社「信愛社」有志により創建された。明治十三年(1880)五月に署名活動を始める。当時の櫻井家当主にして尼崎藩最後の藩主櫻井忠興は神社奉斎に反対していたが、尼崎城中で祀っていた信定公の神璽を元家老の堀家で預かり引き継いで奉斎していて、その継続という形で諒解を得た。 ...