こよみ 雨水 次候 第五候 霞始靆 かすみはじめてたなびく

矢田寺を後にし、同じ大和郡山市矢田町にある東明寺を目指します。車一台がぎりぎり通れるくらいの細い山道を登っていきます。通常東明寺を拝観するには予約が必要ですが、平成二十六年(2014)六月一日から十五日の特別開帳期間に限り事前連絡なしで拝観できます。矢田寺と同等の由緒を持つ、矢田の地に古くからある名刹です。 ...

奈良県大和郡山市は金剛山寺(通称矢田寺)の特別拝観に行ってきました。普段は立ち入ることのできない本堂内陣に入堂し、御本尊地蔵菩薩をはじめ諸尊と対面することができました。あじさい寺とも呼ばれる矢田寺。境内には紫陽花がところ狭しと咲き誇っていました。御本尊の地蔵菩薩は「矢田型地蔵」と呼ばれ、一般的な地蔵とは違い錫杖を持たない独自の姿をしています。 ...

もと真言宗の古刹で錦部郡石見川村(現河内長野市)にあったのを、狭山藩五代藩主北条氏朝の援助の下、独園和尚がこの地に遷して黄檗宗寺院として開山。北条家と狭山藩士ならびに加太新田の民の菩提寺とした。中国・明朝の様式を色濃く受け継ぐ黄檗宗では弥勒菩薩の化身としての布袋尊を祀るのが常。こちらでもやはり本堂の前に布袋様が。 ...

行基の開創と伝えられる古寺。八尾地蔵の名で知られ、広く信仰を集めてきた。本尊の延命地蔵菩薩は小野篁の作とされる。篁は夜な夜な冥府に通って閻魔王の補佐をしたという逸話のある平安時代の人物。寺伝によると、六道の辻で衆生を救う地蔵菩薩に出会った篁がその姿を写し彫ったという。実際の製作年代は室町時代前期と推定されている。 ...

かつてこの付近には聖徳太子によって建てられたという七堂伽藍の大寺、久宝寺があったとされ、地名の由来となっている。その久宝寺の本尊だった太子自刻の十一面観音は、久宝寺無きあと、伊賀や近江など各地を流転することとなる。長い年月が過ぎて再びこの久宝寺村に戻り、許麻神社の境内に小堂を建てて安置した。これが久宝寺観音院である。寛文七年(1677)のことという。 ...

平成二十六年(2014)六月一日から八日まで行われている八尾地蔵こと常光寺の本尊御開帳に行ってきました。大坂冬・夏の陣から四百年ということで、今年から来年にかけて大阪各地でいろいろとイヴェントが企画されているようです。これもその一環です。常光寺は河内音頭発祥の地として知られます。また河内西国とおおさか十三仏の札所になっています。 ...

排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との戦い(丁未の乱)の際、蘇我側の聖徳太子が守屋軍に追われ危機に陥った。その時にムクの大木が二つに裂け、太子はそこに身を隠して難を逃れた。その「神妙椋樹」が境内にあり、山号の由来ともなっている。物部軍撃破後、太子は戦勝記念と守屋の鎮魂のためにここに寺院を建立した。 ...

平成九年(1997)に新築されたお堂。それ以前は、平成二十四年(2012)に新しい護摩堂ができるまで存在した旧護摩堂に馬頭観音像は安置されていたようだ。「嘶堂」というお堂がいつから存在したのかは不明。旧護摩堂が以前(つまり現在の嘶堂ができるまで)は嘶堂と呼ばれていたとする資料もある。しかし木村俊一郎氏のサイト「幻の大和北部八十八ヶ所霊場を巡る」で紹介されている大正十一年(1922)の納経帳は二番札所が「護摩堂」となっている。 ...

聖徳太子が平群郡額田部(現大和郡山市)に開いたと伝える学問道場「熊凝精舎」が起源とされ、それをもって開創とする。その後幾度かの変遷を経て、平城京遷都後に現在の地に建立。かつては南都七大寺に数えられた屈指の大寺だった。七大寺にはいくつか説があるが、大安寺・東大寺・興福寺・元興寺・薬師寺・西大寺・法隆寺とするのが一般的。 ...

町村制施行により、明治二十二年(1889)、衣摺村・北蛇草村・南蛇草村・大蓮村・柏田村・金岡新田・吉松新田の七ヶ村が合併して長瀬村となる。神社合祀政策のもと、いわゆる一村一社の原則が掲げられるのに伴い、明治四十一年(1908)、長瀬村内の八つの神社を合祀することが決まり、大正元年(1912)、長瀬村の総鎮守として衣摺字外島に長瀬神社が創建された。 ...